アントニオ猪木さんと馬場さんの意外な〝接点〟 若き日の後悔を語っていた

山本 鋼平 山本 鋼平
アントニオ猪木酒場福岡中洲店のオープニングセレモニーで、「1、2、3ダァー!」で気合を入れるアントニオ猪木=08年3月
アントニオ猪木酒場福岡中洲店のオープニングセレモニーで、「1、2、3ダァー!」で気合を入れるアントニオ猪木=08年3月

 元プロレスラー、元参院議員のアントニオ猪木さんが1日、79歳で死去した。デイリースポーツのプロレス担当だった記者は2008年3月、IGF大阪大会のPRに奔走する猪木さんを単独で取材する機会があった。

 取材記者として駆け出しだった自分は、緊張するとともに、猪木さんの瞳に飲まれてしまった。それ以降、スポーツ選手、力士、芸能人、政治家を取材する機会があったが、あれほどキラキラ輝く瞳を見た覚えがない。肝心の取材は、冒頭で来日が危ぐされていた外国人選手について「誰だソイツは」と答えられたことをきっかけに、ハチャメチャな展開になった。

 猪木さんは「成長は安定へ、安定は衰退に進む。常に外に出なきゃダメだ」と言いながら、次々に壮大な事業プランを披露。「IGFを全世界に展開する」と、世界中に格闘ネットワークを構築するプランを披露。その一方、北京五輪を控えていた中国には「あそこは金の流れがややこしい。今から手を出すのはやめた方がいいな」と話していたが、2012年に興行が打たれ、2017年には上海IGFが旗揚げされている。

 脱線に次ぐ脱線の末、取材が終わろうとした時、猪木さんは「デイリースポーツには東京プロレスの時、本当にお世話になった」と世間話を始めた。猪木さんは1966年に日本プロレスから東京プロレスに合流も、団体は約3カ月で分解し、日本プロレスに復帰。当時、さまざまな調整役を買って出たという石川雅清記者の名を挙げた後に、こう続けた。

 「本当に世話になったスポンサーがいてね。家業は明石で歴史の長い和菓子店を営んでいたんだけど、オレのせいで傾いちゃった。申し訳ないことをしたな、と今でも時々考えるんですよ」

 1972年の新日本プロレス立ち上げ以降も、波瀾万丈が命尽きるまで続いた猪木さん。それでも、23歳の若者が、逆風の中で受けた支援の恩返しがかなわなかった負い目は、周囲が想像する以上に大きかったのかもしれない。現在は泉房穂市長による子育て支援が、全国的な話題に上がる兵庫県明石市。同市は、ジャイアント馬場さんの妻、馬場元子さんの出身地でもある。猪木さんと馬場さんの〝接点〟を、今回の訃報を受けて思い出した。

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