佐々部清監督の「一期一映」~遺作『大綱引の恋』は映画という「祭」だ!

切通 理作 切通 理作
『大綱引の恋』フライヤー(c)2020「大綱引の恋」フィルムパートナーズ
『大綱引の恋』フライヤー(c)2020「大綱引の恋」フィルムパートナーズ

 三浦貴大演じる主人公の青年は、長年コツコツと地元のために働き続けていたが、自分を主張することは苦手だ、周囲からも、信頼は受けてはいるものの、祭の主役としてまず第一に推される存在ではない。重要なポストに欠員が出て初めて、彼にスポットが当たる。

 この主人公のドラマは、かつての佐々部監督その人のドラマではないかと私は思った。助監督生活を18年以上続け、その仕切りの見事さに「スーパー助監督」の異名を取っていたほどだが、演出部の仲間が2時間ドラマやVシネマで監督デビューしていくのを横目で見ながら、「自分はたとえ60歳を超えても、劇場用映画で第一作を撮る」と決めていたと、佐々部監督は語っていた。

 いつか映画化をと公募(サンダンス・NHK国際映像作家賞)に出したオリジナルシナリオ『チルソクの夏』に目を留めた、後に映画製作会社シネムーブを一緒に起こすことになる臼井正明プロデューサーとともに映画化をもくろむが、監督実績がまだないため資金がなかなか集まらずにいた。おりしも、当初助監督として就いていた『陽はまた昇る』の監督ポストが諸事情で空白になり、監督に抜擢される。44歳の時だった。

 『陽はまた昇る』はビデオテープの新規格開発に尽力した、ある企業の左遷要員たちの地道な頑張りを描く作品である。その作品が映画として成立する危機に晒された時、支えられる人間として佐々部監督が推されたのだ。

 大作映画『陽はまた昇る』の監督になったことも相乗効果となり『チルソクの夏』の方も実現、これが2作目となった。以後佐々部監督は日本映画でヒューマンドラマを作る際の担い手としての波に乗り、その中核的存在となっていった。

 今回の映画の最後には佐々部監督の写真が掲げられ「一期一映」という、本人直筆と思われる文字が添えられている。

 大綱引で太鼓を叩く機会が巡ってくるのは、当事者にとって、一生にひょっとしたら一度かもしれない機会であることは本作のいたるところで強調される。映画もまた、関わった人々にとって1本1本がそれぞれ、2度とめぐってこない機会であるに違いない。

 しかし祭は続き、映画も続く。神輿の上に立つ役割を交代しながら。

 映画の最後で、主人公は、今度は薩摩川内市と姉妹都市である韓国の昌寧(チャンニョン)で開かれる祭でヒロインと再会することを約束する。

 佐々部監督が生きていれば、「次の祭」もあったであろう。

 大きな時間の流れの中での、人間たちの小さな営みを肯定していく佐々部監督のフィルモグラフィが断ち切られたことには、筆者もショックは隠せない。不良性の強い映画の作り手や無頼派の作家が物故した時以上の、運命の不条理さを感じる。そしてそれは、佐々部作品の主人公がいつも向き合い、抗っていたものであることに気付くのである。

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