そうしたタイアップソング戦国時代が幕を開ける前夜、ジェニカ・ミュージック音楽出版の社長兼プロデューサーであるジョニー野村は、1976年の段階でタイアップの重要性に着目していた。これからの時代、映像メディアとの相乗効果で曲の売れ行きが決まると見ていた野村は、自社がマネジメントするロックバンド、ゴダイゴの楽曲をいちはやく映像業界へ売り込むことに奔走した。
そして、彼らが歌ったテレビドラマ「西遊記」(1978~79年/日本テレビ系列)の主題歌「モンキー・マジック」とエンディング主題歌「ガンダーラ」が爆発的な売れ行きを記録すると、野村はタイアップの重要性をさらに確信するようになる。
そうなると、次に野村の頭にひらめいたのは、「タイアップ路線の拡張」であった。
そんななかでジェニカ・ミュージックから売り出されたのが、TALIZMANだった。TALIZMANはタイアップソングに特化したバンドとして、売り出される。
アニメ映画「超人ロック」やハリウッド大作「ブラックホール」のイメージソング、トヨタカローラのCM等々、彼らはメディアのタイアップソングを歌っていく。
◆新サウンドを意識した「ウルトラマン80」
そして、1980年、後にTALIZMANの代表曲ともいうべきタイアップソングに出会うことになる。それが、「ウルトラマン80」であった。
「ウルトラマン80」の企画を起ち上げた当初、制作スタッフは「新しいウルトラマン像とは何か?」という課題に取り組み、連日連夜ブレーンストーミングをくり返した。その結果たどりついた企画書には、未成年者による殺人、自殺など暗い世相を取り上げ、そういう時代ゆえに「〝生命の尊さ〟〝愛の美しさ〟〝勇気の誇らしさ〟を啓蒙し、〝ウルトラ文化〟と呼ばれる子供文化を作り上げていきたい」というスローガンが掲げられている。
そうなると、「行け」「戦え」というような戦意を高揚するような歌詞の主題歌は、新しいウルトラマンにはふさわしくない。
「ウルトラマン80」の主題歌のオファーが来た時のことを木村は次のように語った。
「日本コロムビア本社に行って、(名前は忘れてしまったが)円谷プロの担当者とお会いしました。それで、注文されたのが〝これまでのウルトラマンの歌はマーチみたいなものばかりだったから、新作の『ウルトラマン80』ではロックっぽい感じでお願いします〟ってことでした。山上(路夫)さんの詞には、英語の歌詞も最初から盛り込まれていました。詞を見た当初〝この歌詞にロックかよ〟とも思ったんですが、いざ取りかかってみると、曲は比較的作りやすかったです」
アレンジは、木村自らが行なった。
「分数コードの使い方なんかは、ミッキー吉野やタケカワユキヒデのやり方を参考にさせてもらいました」
分数コードは70年代後半の〝ニューミュージック〟と呼ばれるポップスに使われたベースコードで、その旗手である松任谷由実がこれを頻繁に用いて曲をスタイリッシュに仕上げたことはよく知られている。分数コードはスタイリッシュさを出すにはうってつけの演奏方法であり、当時の新しもの好きのアーティストがこぞって分数コードを演奏に取り入れていくようになる。
そうしたなか、木村は特撮主題歌のアレンジでは異例の分数コードを取り入れた。ヒーローソングでは、非常に珍しいものであった。
また、この制作過程においては、ジョニー野村のアドバイスが反映されているという。
「歌の要所要所に〝アー〟というコーラスが入りますよね。あれはジョニーさんの提案なんです。QUEENの歌い方をヒントにしろといわれました」
こうして流行の最先端の音楽テクニックを結集して作られた「ウルトラマン80」は、まさしく新時代のウルトラマンにふさわしいテーマソングとなった。
「80」最大の功績は、ヒーローソングの新たな可能性を打ち出したことだ。ヒーローソングとポップスとの垣根を取り払うきっかけとして、さらにアニメソングがイメージソングになっていくきっかけとして、この番組はアニメソングの歴史においては燦然と光を放っている。
◆やってられねぇや!
1981年の秋、木村はTALIZMANを脱退すると同時に、事務所を移籍する。ハーリー木村の名義で「宇宙刑事ギャバン」(1982年~83年/テレビ朝日系列)の挿入歌を作曲し、自ら歌った。さらに芸名をHARRYに変え、「未来警察ウラシマン」(1983年/フジテレビ系列)等のアニメソングを歌い、本名の木村昇名義で金沢明子、秋野暢子らの楽曲を手がけるなどして、歌と作曲両面で順調にキャリアを積み上げていった。
ところが、自身の中で不満だったのが、テクノポップユニット「JAN KEN POW(ジャンケンポー)」への参加だった。31歳でのアイドル的な活動に疑問を抱えていた。そんなある時、マネージャーが「今度はこれを着て歌ってください」といって持ってきた衣装を見て、木村は驚いた。まるでミニーマウスが身につけるようなフリフリのついた、ド派手な衣装だった。木村の鬱憤が、ついにここで爆発した。
「やってられるかよ、バカ野郎」
こうして木村は表舞台からこつ然と姿を消したのであった。
あれから30数年の歳月が流れた。
木村は2018年現在、宮城県仙台市に在住し、自分のペースで音楽活動を再開させている。TALIZMANとしては一度もステージ上で歌うことのなかった「ウルトラマン80」の主題歌も、近年はステージで披露することにしている。
年齢は60代後半に突入した木村ではあるが、まだまだやりたいことがあるという。
「夢は、保育園を作ることです。3歳からばっちり音楽の英才教育を施す保育園。しかも、洋楽しか聴かせない。そうやっていい音楽だけを聴いて育った子供が、世界に羽ばたくミュージシャンになっていくと思うんですよ」
木村が近い将来、音楽業界の「ウルトラマン先生」と呼ばれる日が来ることを祈って、私は木村とかたい握手を交わしたのであった。
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この度、当サイトが改めて当時の関係者に取材すると「明らかに事実と異なる」と具体的な指摘があり、削除した箇所がありました。芸能活動の休止に関するエピソードでは、当時の関係者が「衣装で…。聞いたことがありません」と驚いていました。どうやら、衣装以外にもさまざまな葛藤を抱えていたようですが、詳細は控えます。池畑慎之介さんとのエピソードは、事実確認は難しいのですが、遠い過去の思い出話の範ちゅうに収めていただきたく思います。
筆者の剣持さんは「木村さんとお会いしたのは、仙台で行なった取材の際、一度限りでした。後に木村さんがやんちゃな性格だと知ったのですが、私に対しては親切このうえなく、繊細ささえも感じられる人柄でした。出版社の事情により、アニソンシンガーの列伝形式の書籍はお蔵入りとなってしまったので、木村さんには申し訳ない気持ちでいっぱいでした。しかし、木村さんの霊にほんのわずかながらも花を手向けることができたのではないかと思います。木村さんのご冥福をお祈りします」と、コメントを寄せました。木村さんの実像の一端が少しでも世に伝わり、その楽曲が歌い継がれていくことを願っています。
(よろず~ニュース編集部)