中学を卒業する頃には、部活だけでは飽き足らず、姫路のジャズ喫茶で大人と互角にサックスでセッションをやるようになった。
その頃のその界隈の音楽レベルがいかに高かったのかを裏づけるエピソードとして、木村の口からこんなことが語られた。
「その頃、ぼくの三つ年上でハスキーな声でR&Bを歌っていたのが〝キー坊〟でした。あの当時、GSブームだったのに、キー坊はドック・オブ・ベイのようなR&Bばかり歌っていた。けれども、すごいパワーで歌うから、関西ではすぐに知られる存在になりましてね。街を歩いていたら、キー坊のあとにゾロゾロと女の子がついて行くという、それぐらいの人気者でしたよ」
それが、のちに「悲しい色やね」でブレイクする上田正樹であった。
上田以外にもその頃の姫路界隈のジャズ喫茶には、レベルの高い歌手や演奏家が大勢いたという。そうしたアーティストと互角に渡り合っていた。
東京で勝負しようという気持ちが日に日に高まった。そこで、木村は高校を中退し、知人のつてを頼って上京することにした。
上京してからすぐに演奏スキルが認められ、木村は16人編成のバンド「上野信一と東京ラティーノス」のサックス担当として迎え入れられることになった。
「18歳の時からピーターのバックバンドをやり出しました」
池畑慎之介は、上方舞吉村流の家元、吉村雄輝の長男として生まれたが、因習を嫌って17歳で家出した。その後、六本木のゴーゴークラブに入り浸って踊り明かす日々を送るようになったが、そのピーター・パンのような美貌にちなみ、池畑は夜の街で〝ピーター〟という通称で知られるようになった。映画「薔薇の葬列」(1969年公開/ATG)で主演デビューを果たすと、続けざまにピーターは「夜と朝のあいだに」を歌う。この一曲で彼の名前は一気にお茶の間にも知れ渡るようになった。
木村がピーターのバックバンドに参加したのは、まさにピーターがブレイクした直後の大阪万博開催の年だという。しかし、加入から1年たった頃、木村は〝クビ〟を通告されてしまった。
「営業回りでは、ぼくがサックスを吹いていると、その最中にピーターがぼくにむかってウインクしたり投げキスしたりするんです。もちろん本人は冗談のつもりですよ」
これが関係者の不興を買ったためだという。
◆音楽業界の十字軍
その後、木村は自身の率いる〝NOBORUバンド〟でボーカルを担当し、海援隊の「JODAN JODAN」の作曲・アレンジなどをしていたが、1979年、ロックバンド「TARIZMAN」のリーダー兼ボーカルとなり、翌年にはレコードデビューを果たす。TALIZMANとは、ドイツ・スイス語で〝十字軍〟という意味だ。音楽業界の十字軍たる存在になろうという思いをこめて、名づけられたバンド名だった。
TALIZMANのデビュー曲「Aquarius」は、ミュージカル劇「ヘアー」(1980年4月4日~29日/パルコ劇場)の主題歌である。以降、彼らは一貫してテレビCM、アニメ、映画のタイアップソングを歌っていくことになる。これは、彼らの所属した音楽事務所の方針だったという。
では、事務所はTALIAMANに何を期待していたか。それを語るにはまず当時のタイアップソング事情に目を向ける必要がある。
アーティストの楽曲が〝タイアップ〟として売り出されるようになったきっかけは、1976年の資生堂のCMからである。従来のCMソングは商品名を連呼するものばかりであったが、70年代半ばに資生堂が打ち出した〝イメージソング戦略〟によって大きく風向きが変わり始める。
その戦略とは、テレビCMで流れた音楽がレコード会社から発売され、曲がヒットすることによって、さらなる宣伝効果を見込めるというものだった。そのためには商品名を連呼する曲ではなく、オリジナルの新曲として人の耳に馴染むことが必要と考えられた。
その第1弾として制作されたCMが、「ゆれる、まなざし」だった。このCMは、シックな衣装に身を包んだ女優の真行寺君枝がマッチの先に火をともし、火が消えると、カメラ目線で視聴者を見つめるだけの映像である。それが1分間も続く。商品の説明は映像が終わる直前に5秒程度挿入されるだけで、終わるまで化粧品のCMとは気づかせないような工夫がされていた。視聴者には女優の美しさ、そのバックに流れる歌の素晴らしさをじっくりと堪能してもらうというのが、CMの趣旨であった。CMで使われた小椋佳の「揺れるまなざし」はヒット曲となる。
その後も、矢沢永吉「時間よ止まれ」(1978年)、堀内孝雄「君のひとみは10000ボルト」(1978年)、ツイスト「燃えろいい女」(1978年)といった資生堂のCMで使われた曲は続々とヒットを飛ばし、その相乗効果で化粧品の売上も伸びていった。資生堂の戦略どおりの効果であった。
カネボウ(現・カネボウ化粧品)はやや遅れを取ったものの、夏目雅子が小麦色の健康的な肌を見せる映像にティナ・チャールズの「Oh!クッキーフェイス」(1977年)を流すというCMでもって資生堂に対抗した。それ以降のカネボウのCMで流れたサーカス「Mr.サマータイム」(1978年)、布施明「君は薔薇より美しい」(1979年)、渡辺真知子「唇よ、熱く君を語れ」(1979年)等、イメージソングも続々とヒットを飛ばしていく。
そして、この時代からCMで使われた曲は、商品名を連呼するコマーシャルソングとの差別化を計るため、いつしか〝イメージソング〟と呼ばれるようになるのである。
こうして資生堂対カネボウに端を発したイメージソング合戦は、国鉄、カメラメーカー、製菓会社など他業種のCMにも飛び火して1980年代のテレビはタイアップソングだらけになるという現象が起こったのである。