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「パーティジョイ」でデビューのボードゲーム界のレジェンド、20年ぶり復帰から得た新たな目標とは

山本 鋼平 山本 鋼平

就職からパーティジョイ制作の道へ

 専門学校を経て1984年に印刷会社のデザイナーとして就職。バンダイからパーティジョイ制作を注文され「キン肉マン・地獄のタイトルマッチ」でデビューした。おおらかな時代でゲーム内容は一任されたものの、先輩デザイナーの助力を受けたことが納得できず、2作目の「日本全国ミケ猫トマトの配達屋さん」は単独で制作。しかし3作目の「モンスター学園」はスランプに陥り、同じ先輩の手を借りて完成させたが、やはり納得ができず間髪入れず4作目「ステップジュン」を単独で完成させた。若者らしい負けじ魂を隠さない時期だった。

 そんな若気の至りが軋轢も生んだ。デビュー作発表後のことだ。「東京おもちゃショー」のバンダイブースで説明要員に駆り出された後、同行した先輩から「野村君はボードゲームに向かない」と言われ、ゲーム担当から外された。「先輩に『おもちゃショー』の感想を聞かれ、『特に見るべき商品はなかった』と答えたのがまずかったんじゃないか」と述懐した。

 そんな危機を救ったのも、パーティジョイだった。シリーズはヒットし、多数の制作依頼が届いた。先輩だけでは手が足りなくなり、駆り出された。「絶対に成功させる」と強い決意を持って取り組んだのが「日本全国ミケ猫トマトの配達屋さん」。先輩からサポートが必要かと声をかけられたが断り、独力で完成させた。社内外で評判が良く、現在もシリーズの名作として挙げられる代表作となった。「背水の陣で臨んで結果を出せた貴重な経験で、おかげでいまだにこのゲームが語られている。先輩は以後一切干渉してこなくなり、対等な『ライバル』として良好な関係が続いた」と懐かしんだ。

 ボードゲーム制作に取り組みながら、企画デザイン室の室長も任されたが1989年秋に退社。バンダイの元パーティジョイ担当者が独立して立ち上げた企画会社にヘッドハンティングされ、転職した。

 エピックソニーのファミコンソフトを企画開発する仕事が多かったという。社長から「ボードゲームを作れるんだから、ロールプレイングゲーム(RPG)くらいできるだろう」と言われ、ゲームボーイのアクションRPGを任された。初挑戦でうまくいく訳もなかった。「さんざん苦労しましたが、プログラムの会社がポケモン開発前の『ゲームフリーク』で、いろいろ助けてもらいました。だいたい出来上がってきたところで、社長から『全部やり直せ』と掌返しをされ、結局1年くらい掛かって完成。任天堂にゲームROMを納め、印刷物の校正刷りまできたところで、僕の聞いたところでは『任天堂の意向で発売中止』になりました」と残念そうに振り返った。

 結局、同社でボードゲームやカードゲームの制作を行うも、会社が解散することになり、真っ先に解雇されることになった。退職した1991年春以降は、フリーランスで活動。実績はあるだけに、ボードゲーム、コンピューターゲームゲーム、グラフィックデザインの仕事が舞い込んだ。1995年にバンダイの得意先のデザイン会社に入り、ゲームづくりに没頭した。ボードゲームやコンピューターゲームに加えて、iモード「ドコでも遊べガス」からはネットワークゲームの企画開発・運営業務にも取り組んだ。やがてデジタルゲームへの苦手意識は克服した。

 「こちら葛飾区亀有公園前派出所」のボードゲームを制作した際は「どういうテーマのゲームにすべきか意見が対立し、バンダイの担当者と深夜3時くらいまで激論しました。その結果『久々に良い議論をしました。この際だから、2つとも作りましょう』ということで、担当者が求めるゲームと私が主張するゲームを両方作ることに。これがバンダイのために作った今のところ最後のボードゲームになりました」と思い返した。

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