大河『家康』一揆を鎮圧した家康の冷酷な一言 「以前のように」“詭弁”を押し通す

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(freehand/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「どうする家康」第9回「守るべきもの」では、松平(徳川)家康が、三河一向一揆勢と激戦を繰り広げた末、結果的に一揆勢が追い詰められていく様が描かれていました。それでは、家康は、実際にはどのように一揆を鎮圧したのでしょうか?

 家康と一揆勢との本格的な戦は、永禄7年(1564)1月から始まったと言われますが、なかなか決着はつかず、一進一退の攻防が繰り広げられていました。しかし同年2月、土呂・針崎の一揆勢と家康の軍勢が小豆坂(愛知県岡崎市)などにおいて激突、戦は家康方の勝利に終わったことにより、局面が動きます。一揆勢に戦疲れが生じていたこともあり、和議を望む声が出てくるのです。

 家康方の大久保忠俊の仲介もあり、一揆方が家康に和議を申し出てくるのでした。一揆勢の要望は「寺をもとのままにし、一揆を企てた者を含めた我らの命をお助けください」というものでしたが、家康はその事に不満であり、一旦、交渉が進まなくなることもありました。

 しかし、大久保忠俊の懸命な説得により、家康は考えを変えて、一揆勢と和議を結ぼうということになります。「以前と同じように寺や信者を扱おう」との起請文(誓約書)まで家康は書いたのでした。(これで安心)と一揆方の人々は思ったことでしょう。

 ところが、家康はそんな甘い人間ではありませんでした。一揆方が武装解除した途端、一向宗寺院の破壊を命じたのです。「以前と同じようにするとの仰せだったではありませんか!家康様は起請文まで書いて、約束してくれたではありませんか」と当然、反発が出ます。

 それに対する家康の言葉が振るっています。「(寺があった辺りも)以前は野原だったであろう。よって、以前のように野原にせよ」(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門が書いた自伝『三河物語』)と家康は言い放ったというのです。詭弁と言えば詭弁です。

 しかし、家康はこの詭弁を押し通して、堂塔を破壊していったのでした。寺の僧侶は離散したそうです。一揆の参加者で許されたのも極く少数であり、本多正信や鳥居忠広やその他の者は追放されました。家康は最終的には非情な手段でもって、一揆方を押さえ付けたのでした。こうして、三河一向一揆は鎮圧されます。

 さて、番組の最後に甲斐国の武田信玄(阿部寛)が出てきましたが、三河一向一揆が制圧された年(1564年)、信玄は宿敵・上杉謙信との5回目の川中島合戦に臨んでいます。川中島合戦は5回にわたると言われていますが、その最後の戦です。今後は、ドラマで家康と信玄の確執がクローズアップされてくると思われます。要注目です。

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