映画「男はつらいよ」の寺男・源吉役など名脇役として活躍した俳優・佐藤蛾次郎さんが亡くなった。佐藤さんが2013年1月から3月までデイリースポーツで全39回のコラム「銀座GSブルース」を連載した際、記者は佐藤さんが営んだ東京・銀座のパブ「蛾次ママ」に通って話を聞き、その後も折に触れて接してきた。得意のカラオケやお客さんの水割りを作る合間に〝ガジさん〟が聞かせてくれた話。そこから垣間見えた人物像を紹介する。
映画「男はつらいよ」シリーズで公私ともに兄貴分だった渥美清さん、盟友の松田優作さんと原田芳雄さんをはじめ、嵐寛寿郎さん、石原裕次郎さん、勝新太郎さん、渡哲也さん、吉永小百合といったビッグネームとの裏話から、オノ・ヨーコの弟が常連だった縁で店を訪ねてきたものの盆休みで中に入れなかったジョン・レノンさん、プールサイドで「(出演作を)見てますよ」と声をかけてきた三島由紀夫さんなど意外な人選のエピソードまで、ネタには事欠かなかった。
「俺が出したレコードな、手元にあったんやけど、沢田にあげてしもて、今、ないんや」「どこの沢田さんですか?」「ジュリーや」…そんな会話にワクワクしたものだ。
山田洋次監督との出会いは映画「吹けば飛ぶよな男だが」(1968年)。大阪を拠点としていた佐藤さんの所属事務所に、「大阪弁でイキのいい若手役者」を求めて東京から山田監督が訪ねてきた時の話だ。ミナミで夜通し遊んでいた佐藤さんは2時間以上も遅刻した上に、くわえタバコで面接した。「どんな役をやりたいか」という山田監督の問いに「不良!」と即答。お眼鏡にかなって採用され、「男はつらいよ」シリーズへと道が広がる。
東京で俳優として成功した後も、酒場のマスターとの二足のわらじを履いた。「蛾次ママ」の前に新橋で営業した「撫(なで)し子」というスナックでは、原田さんがギターを演奏し、渡さん、松田さん、桃井かおりらが夜を徹して歌うという場を貸し切りで作っていた。実際に「1984年5月 撫し子ライブ」とラベルに書かれたカセットテープを聞かせてもらった。
渡さんは「赤い靴」や「かあさんの歌」から「ダイアナ」「帰ってきたヨッパライ」と選曲の幅が広く、全員のリレーで歌った曲の中でも松田さんの「黒の舟唄」や桃井の「プカプカ」が印象的で、原田さんの「リンゴ追分」はすさまじかった。「アニキ(原田さんのことをそう呼んだ)の声には艶(つや)がある。酒を飲んで歌わんと、あの味は出んよ。しびれたね」。原田さん亡き後も、佐藤さんは絶賛していた。
先述の連載タイトルは松田さんの主演映画「横浜BJブルース」にちなんでおり、「GS」とはガジロー・サトウの略。佐藤さんは松竹の「寅さんファミリー」の一員というイメージが世間的には強いが、松田さんや原田さんが担ってきたアウトローな世界観とも自由に往来できた稀有(けう)な存在だったといえる。
また、生涯を通じてワンポイントリリーフ的な脇役が多かったが、私生活では、アラカンや二代目中村鴈治郎といった戦前から活躍する大御所にもかわいがられ、松田さんら年下の大スターには慕われるという、芸能界でのポジションが逆転する現象も。天性の〝人たらし〟の才があったと感じた。
その後、銀座8丁目で四半世紀にわたって営業した「蛾次ママ」はコロナ禍の影響を受けて20年の大みそかに閉店。渥美さんも愛した同店の名物メニューである通称「寅さんカレー」も食べられなくなった。焼酎に浸けた高麗人参、タツノオトシゴ、クコの実、ウコンなどの薬膳エキスを入れて寸胴鍋で煮込み、2-3か月ほど冷凍庫で熟成させた逸品だ。二日酔いに聞くと評判だった。そうでなくても、食べるだけで不思議と体調が良くなった。佐藤さんは「レシピは頭の中にある。今後、イベントなどでお声がけいただいたら作りますよ」と話していたが、それもかなわなくなった。
43年間連れ添った元女優の妻・和子さん(享年68)は多発性骨髄腫のため16年に亡くなった。長男で俳優の亮太は「僕らが想像する以上に寂しかったと思います」と父の胸中を代弁する。記者が最後に会ったのは昨年7月。「〝彼女〟と過ごす時間が楽しい。男だもん。人生を謳歌(おうか)してますよ」と健在ぶりを示してくれたが、その言葉には昭和を生きた役者として、まだまだ「枯れたくない」という思いが見え隠れしていた。
「ワサビのような役者になりたい」と語っていたガジさん。「ピリッと大ネタ(大物俳優)の味を引き立てるワサビ。そんな役者に俺はなりたい」。そうつぶやきながら、天国では奥さんや往年のスターたちに「まだ早い!」とツッコまれているかもしれない。