『鎌倉殿』中川大志演じる坂東武者の鏡・畠山重忠の“運命“を狂わせた「悪口」の怖さ 歴史学者が解説

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(warmtail/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で描かれているように、1204年、鎌倉幕府の三代将軍・源実朝は、妻を迎えることになります。お相手は、公卿の坊門信清の娘。名前は伝わっていませんが、出家後は西八条禅尼と称されました。父・信清の姉は、高倉天皇の妃であり、信清は後鳥羽上皇の親族(外叔父)に当たります。実朝の妻が京都から鎌倉に下ることになり、鎌倉から迎えの者が派遣されます(同年10月中旬)。

 それは、北条政範・結城朝光・千葉常秀・畠山重保といった面々でした。北条政範は、北条時政とその後妻・牧の方(りく)との間に産まれた子です。「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時の異母弟になります。畠山重保(杉田雷麟=すぎた・らいる)は、武蔵国の有力御家人・畠山重忠(中川大志)の子であり、母は北条時政の娘でした。

 ところが、北条政範は翌月5日に突如、京都で急死してしまいます。16歳という若さでした。若年にもかかわらず、従五位下という官位の高さを誇っていた政範。父・時政も母・牧の方も、この子に期待をかけていただけに、その死は、両親にかなりの衝撃を与えたことでしょう。時政・牧の方も、義時ではなく、政範を北条本家の後継者に考えていたとの説もあるほどです。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)には、政範を失った父母の悲しみは、他に比べるものもないとまで記しています。

 同年11月20日には、政範の下僕たちが、鎌倉に帰着します。そして、前月6日に、政範を東山に葬ったことを伝えるのです。それだけではなく、彼らはもう1つ、京都における物騒な出来事を伝えます。それは、政範が亡くなる前日に、平賀朝雅の邸で宴会が開かれていたのですが、その席で、朝雅と畠山重保が口論となり、喧嘩したという情報でした。しかし、宴席にいた連中が2人を宥(なだ)めたために、それ以上のこと(例えば刃傷沙汰)に発展することはなく、収束したとのことです。

 平賀朝雅の父は、平賀義信といい、源義光(平安時代中期の武将)の子孫でした。つまり、平賀は源氏の一族だったのです。朝雅は、その母は、頼朝の乳母である比企尼の3女。妻は北条時政と牧の方との間に産まれた娘でした。朝雅は、京都守護として都に上っていたのです。

 そうした中での、朝雅と畠山重保の口論は、ドラマ第35回「苦い杯」にも描かれていました。朝雅は、妻の母である牧の方に、重保の悪口を伝えたそうです。そしてそのことが、坂東武者の鏡と言われた畠山重忠の運命に大きな影響を与えることになるのです。

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