■岸田今日子のゲキ
英語曲で構成された自身のステージ、ミュージカルに注力する中、岸田今日子からは「日本語の曲も歌いなさい」「もっと自分を売り込まないと」とゲキを飛ばされた。テレビ番組では岸田と一緒に旅をし、番組を通じて脚本家の倉本聰と知り合った。倉本がカナダで行われたイベントに招かれた際は、岸田と一緒に参加する機会もあった。
「そんな関係で倉本さんを通して、井上陽水さんや吉田拓郎さんが出演するイベントがあるので、ポプラさんも歌いませんか、と話がありましたが、お断りしました。そんなメジャーな人たちの中にいるのはどうかと思ったからです。私はもう新人じゃなくて40歳を過ぎていましたし。そういうところがダメでしたね、売れていないコンプレックスかな。そういう場面で売り込みたい、という気持ちが私には欠けていました」
ミュージカル時代も大手事務所や、音楽プロデューサーから売り出す企画が寄せられたが、断り続けてきたという。近年になって、過去のアニメソングをステージで披露する企画を打診されることがあっても「もう少し若かったらね。あの時で精いっぱいの歌声は、もう今は出せませんから」と距離を置いている。
名前を売り込む機会を、自ら避けてきたようにもみえる。「それが駄目なんですよ。大して実力もないのに、巻かれていかないんですよ。永六輔さんが応援してくれて、コンサートもやってくれて、NHKのディレクターもかわいがってくれました。でもディレクターには『このやり方では売れない』と言われていました。やはり世間を見て、読む必要があるのでしょう。ただ、そういう意味では自由に生きてきたから、後悔はないですね。ミュージカルの時もたくさん大きな会社からお誘いがあって、話してみたら、方向性が違うので全部お断りしてきました。もし、それで売れてしまっても、私は不器用なのでぼろぼろになっていたと思います」。もったいなさを認めつつも、正しい選択を行ったという自負がある。
日本で活動しながらも「お金は全部アメリカに投資しましたね」と話すように、渡米を繰り返した。そして、2006年に岸田今日子が死去してからは、ライブで日本語曲も歌うようになった。
「最期も見届けて、本当に家族のようにしていただきました。今日子さんには私が英語の歌だけを歌うのを『絶対に良くない。日本語でも歌いなさい』とずっと言われていたけれども、年を取ってから、日本では日本の歌も大事だと分かりましたね。今日子さんも若い頃に海外の芝居を演じていた時、日本人として国民性も違うから、向こうの作品だけでは限界があると分かっていたんでしょうね」。
現在は「ウイングマン」の曲を「キーを落とすのはむなしいんですけど」と照れ笑いしつつ、時折披露するようになった。ライブ会場に、当時のファンが訪ねてきたこともある。
「フランスの方がいらっしゃって、向こうで私が歌った曲が人気だと教えてもらいました。今もメールが来ますね。数年前には『ウイングマンのファンです。お腹に赤ちゃんがいるんです』と来てくれた夫婦がいました。その子がもう小学校に入るようです。最初に会った時から随分と時が経っているのに今でも応援してくださっています」
金銭的な裕福には遠くても、80年代からの仕事は歴史に残り続ける。「やっぱり音楽が好きなんでしょうね。純粋で神聖な世界で、自分がどう生きるか、突き詰めてやってきました。自分にも厳しかったのは、音楽が素晴らしいからです。私はシンガーソングライターじゃないから、与えられた曲、ありものの曲をやるけど、その1曲1曲に世界がある。私が表現したらどうなるか、大変だけど面白い仕事ですよ。でも、もうちょっとお金持ちにならなきゃいけなかったかな」。自嘲気味な内容とは裏腹に、表情も口調も明るく笑い飛ばすように語った。
「先は何も考えず、今できることを一つずつですね。恥をさらしても、最後までちゃんとやりたいと思います。見届けたいと思っている人もいると思いますから。歌うことしかできません。それと、岸田今日子さんの追悼公演を亡くなった2年後にやったのかな、今日子さんの歌った『動物の12カ月のうた』というプログラムを、もう一度やりたいですね」
姉は米国で健在だといい「私より元気なくらいですよ」と笑った。長身の背筋を伸ばし「私は、色々大変なこともありますが、自由に元気にがんばってきたので幸せだと思っています」と、胸を張ったポプラ。これまでもこれからも、喜びや悲しみも全て、歌声で包み込んでいく。