47年前、「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ」のフレーズで時代の寵児となった漫談家・松鶴家千とせが26日、歌手・恵中瞳とのユニット「千とせ&ひとみん」の新曲「CH列車で行こう!/キャンユーアンダースタンド?」のCDをリリースした。1975年に発売され、160万枚を売り上げた大ヒット曲「わかんねェだろうナ(夕やけこやけ)」で知られるレジェンドは寅年の年男。今月9日で84歳になった千とせが、よろず~ニュースの取材に対し、近況や伝説のネタが生まれた裏話を明かした。
「CH」とは千とせのCと、瞳のH。「キャンユー~?」は「わかるかなぁ」の英訳。いずれも自身の作曲で、リズムに乗った両者の「おしゃべり」と歌唱で構成される。「語り」を軸にした点がミリオンセラーの代表曲に通じる。千とせは毎月1回、浅草の演芸場「木馬亭」で主催する公演「うたとお笑い」の楽屋で、伝説の歌が生まれた舞台裏を語った。
「この木馬亭の2階(木馬館)で、安来節のお姉さんの一行が踊る間に漫談やってたんですが、僕が出ると、お客さんがいなくなる。たばこ吸ったり、うどん食ってるんだ。それで、お客さんに向かって『イェーイ、わかるかな?わかんねぇだろうなぁ』って両手でピースサインして、寝ている人を揺り動かしたりした。それが始まりです」
客を振り向かせる苦肉の策が一世一代のギャグとなった。そこにネタを付けた。「俺が昔、夕焼けだった頃、弟は小焼けだった。父さんは胸焼けで、母さんはシモヤケだった」。その語りがレコードに入ったわけだが、そこには戦時中の苦しさが込められていた。
「満州で生まれ育ったんですが、父が務めていた満鉄の社宅裏に沼があって、そこが凍ると『夕焼け』が反射してまぶしくてね。弟と一緒に見ていた。ソ連が攻めてくる前に、お世話になった中国人の方々から『日本は戦争に負けるから帰りなさい』と教えられて命からがら父の郷里である福島県に引き揚げたんだけど、米の配給がなくてサツマイモばかり食べていた。『胸焼け』はサツマイモを食べた時の思い出。母の『シモヤケ』は手に脂肪分がなくて。本当は笑ってやるもんじゃない。刑務所の慰問でやった時は、皆さん泣いてくれて、僕もそれを見て泣いた」
トレードマークは、アフロへアとあごひげ、サングラス。戦後、ジャズに魅了され、15歳だった1953年、家出して「アメリカに行く」と福島県から列車に乗ったが、着いたところは上野駅。「電車でアメリカに行けると本気で思っていました」。そこが分岐点。アメリカではなく、アサクサ(浅草)で芸人となるが、米国の黒人音楽への憧れが今なお貫くファッションとなった。
「フジテレビでコント55号を売り出した常田久仁子さんというディレクターに電話して、刑務所でみんなが泣いた話を伝えたら、『うちでやってください』と言われて。最初に出たのがフジテレビの番組です。そこから忙しくなった。別の番組では『夕焼けはもういいから別のネタやって』とか言われて大変だった。ネタを作るのに自分で自分の首を締めた」
レコードの大ヒットで国民的な人気を獲得。76年には東映映画「トラック野郎・望郷一番星」に出演し、CMでは「日清焼きそばUFO」の初代キャラクターに抜てきされている。その後は地道な活動を続け、近年は「デジタルな展開」に活路を見いだした。
「テレビから離れて私の顔を知らない方も多いのでYouTubeで見ていただこうと。『Cwave』というインターネット放送局では『千とせとあるきたい千住』という番組を第1、第3水曜日の午後2時から1時間やっています。恵中瞳の事務所が運営するYouTubeチャンネル『南雲堂チャンネル』にもお邪魔している。健康でやってます…ということろを見てもらいたくて」
今回のユニット結成については、恵中から「千とせ師匠の人情味あふれる語りが大好きです。学ぶことがたくさんあり、お人柄にもほれました。師匠と頑張っていきたい」と慕われる。
芸歴70年目。「コロナ禍で芸能人は大変です。仕事がない、やる場所がない…となると、新しいことをやろうという気が自然になくなってしまう。でも、私はそれに逆らってね。新曲をどんどんやっちゃおうと、そればかり考えている。コロナ禍になって、かえって、いい歌をやろうと。だから、コロナのおかげで私がよみがえったというか、頭の回転が働き出した」。逆境がパワーになっている。