1950年代に天才バイオリン少女として脚光を浴び、60年代には松竹映画の正統派女優として「原節子の再来」と称され、70年に渡米して衝撃的なヌード写真集を世に出すなど時代の先端を走る…。そんな数々の伝説を残した女優・鰐淵晴子が、7月に都内で行われたトークショーで戦時中に防空壕で生まれた自身の過去など「ファミリー・ストーリー」を語り、よろず~ニュースの取材には若き日の長嶋茂雄氏と出会った思い出を明かした。
鰐淵が登場したのは、松竹映画100周年を記念し、観る機会が少ない作品を集めた「蔵出し!松竹レアもの祭」(5月30日-7月31日、東京・ラピュタ阿佐ケ谷)。水谷良重(2代目水谷八重子)、倍賞千恵子と共にショーダンサーの3人姉妹を演じた「踊りたい夜」(63年)の上映前、今特集の作品をセレクトした娯楽映画研究家・佐藤利明氏を聞き手にトークに臨んだ。
父は世界的なバイオリニスト・鰐淵賢舟氏で、母はウィーン生まれでハプスブルグ家の末裔となるチター奏者・ベルタさん。ナチスドイツが台頭する中、ウィーンに凱旋したヒトラー総統と街頭で目が合ったベルタさんは「これはまずい」と直感し、夫と共に日本に行くことを決めたという。
鰐淵は45年4月、終戦4か月前に疎開先の茨城県内の防空壕の中で生まれた。東京大空襲の翌月だ。「母は1人で私を生んだんです。赤ちゃんだったから覚えてないですけど、まあ、なんとか(成長して)様(さま)になりました」。戦後、6歳でバイオリニストとしてデビューし、50年代は子役として活躍。その代表作が55年の「ノンちゃん雲に乗る」だ。
「ノンちゃんの雲はグラスファイバー製で、ずっとチクチクしてものすごく痛かったんですね。撮影が終わったら急いで帰った。お風呂で足に刺さったガラス繊維を取りたくて。母親役の原節子さんはありえないような美しさと気品を兼ね品えて、そこにいるだけで空気が変わった。私の母と話があったようで、家に遊びに来られたこともありました」
65年の主演作「ウナ・セラ・ディ東京」を最後に松竹から離れ、東映で梅宮辰夫さんと共演した「花札渡世」(67年)といった名作も残し、70年に写真集「イッピー・ガール・イッピー」を発表。ニューヨークの街頭などで撮影した前衛的でアート性の高いヌード写真が話題になった。
美輪明宏ら時代の先端を行く人たちが個性を発揮した東京12チャンネル(現テレビ東京)の「私がつくった番組 マイテレビジョン」(72-73年放送)が近年、CSの日本映画専門チャンネルで再放送されたが、その中に鰐淵の回もあり、「女優という職業を通して、自分の持っている『いろんな女』になってみたい」と渡米後の新たな可能性を模索する発言が印象に残った。
その言葉通り、鰐淵はその後も東映での主演作「らしゃめん」(77年)などで「いろんな女」を演じ、90年代には林海象監督の「我が人生最悪の時」(94年)や「遙かな時代の階段を」(95年)といった「私立探偵 濱マイク」シリーズの映画に出演。永瀬正敏の母親である伝説のストリッパ―役で存在感を発揮した。
近況について、鰐淵は当サイトに「本を出さないかという話もあります。まだ分かりませんが、少女時代からアメリカに行くまでは自分の中でメモしています。渡米し、写真集を出して新しく自分の力で生き始めた頃の話もあります」と明かす。佐藤氏は「時代の先端を行っていた女優さん。映画界でもとんがった才能の作品に声がかかり、特に林監督とはがっぷり組んで、濱マイクシリーズではなくてはならないファム・ファタール(※魔性の女)になった」と解説した。
最後にプロ野球界のスターとの思い出を聞いた。23日夜、東京五輪の開会式で聖火ランナーとして登場し、改めて注目を浴びた長嶋氏だ。
「当時、私は多摩川沿いに住んでいて、巨人の練習グラウンドが近くにあったのですが、父と散歩していると、巨人に入団して間もない長嶋さんが『鰐淵賢舟さんですよね。僕はクラシック音楽が大好きで、お父様のバイオリンをよく聴くんですよ』とお声をかけてくださったんです」
長嶋氏が声をかけたのは、当時、すでにアイドル的な人気のあった娘ではなく、バイオリニストの父だった。ミスターの「クラシック音楽好き」が伝わるエピソード。鰐淵は懐かしそうに振り返った。