戦国大名・織田信長に仕えた太田牛一が著した『信長公記』には、ある不思議な話が収録されています。同書には「希異の事」と記されています。その話は、信長が足利義昭を奉じて上洛(1568年)する以前のものです。
尾張清洲から50町ばかり東に行ったところに比良(名古屋市西区)があるのですが、その辺りには当時、長く大きな堤があったそうです。堤の西には「あまが池」という池があり、そこには恐ろしい蛇が住んでいるとの言い伝えがありました。
ある年の正月中旬には、安食村福徳郷に住む又左衛門がこの堤を通ったのですが、太さが一抱えもあるような「黒き物」に出会ったそうです。
その「黒き物」の胴体は堤の上、首は池に達するほどの長さでした。又左衛門の足音を聞いたのか「黒き物」は首をもたげます。するとその顔は「鹿」のようであり、目は星の如く光り輝いていたとのこと。舌は真っ赤で、手の平のようでした。まさに化け物の出現に又左衛門は恐れ慄き逃げ出してしまいます。雨の降る夕暮れ時のことだったそうです。
又左衛門は恐怖の体験を宿に戻ってから、人々に語ります。その怪奇話は人から人へすぐに広まり、ついには信長の耳にも達するのでした。信長は、話の主の又左衛門を連れて「あまが池」を訪れるのです。正月下旬のことでした。
翌日、巨大な化け物(蛇)の正体を突き止めるため、信長は「蛇かえ」を命じます。池の水を干して、蛇を炙り出すのです。近隣の村々の者たちは「桶・鋤・鍬を持って集まれ」と命じられます。動員された彼らは4時間ほど、池の四方から水替えをさせられるのです。まさに「池の水、全部抜いてみました作戦」です。
しかし、水を汲み出しても、池の水は余り減りません。業を煮やした信長は、脇差を口に咥えて自ら池に飛び込みます。大蛇を見つけ出そうというのです。だが、大蛇らしきものは見つけられませんでした。信長は鵜左衛門という水練の手練れにも池の探索を命じますが、彼もまた大蛇を見つけ出すことはできません。
それならば仕方ないということで、信長は清洲に帰ってしまいます。信長は人々を恐怖される化け物を退治しようとしたのですが、叶わなかったのです。脇差を咥えて大蛇退治に1人向かう信長。ここからも信長の勇気と豪胆さが分かるというものです。