「女神のカフェテラス」小野白菊 良妻賢母と淫らさに通じる近代の残滓 ヒロインを思想哲学的に考察

マザー・テラサワ マザー・テラサワ
小野白菊が飾った「女神のカフェテラス」単行本9巻の書影 (C)瀬尾公治/講談社」
小野白菊が飾った「女神のカフェテラス」単行本9巻の書影 (C)瀬尾公治/講談社」

 ラブコメのヒロインを思想哲学的に考察する。「週刊少年マガジン」(講談社)連載中の『女神のカフェテラス』(作・瀬尾公治)が、4月7日からMBS・TBS系で放送中であることを記念して、早大大学院で政治哲学を専攻し、哲学をモチーフとしたネタを展開する〝哲学芸人〟マザー・テラサワが登場。祖母の遺産である喫茶店を継いだ主人公と、5人の女の子による共同生活とその経営模様を描く同作において、ヒロインの幕澤桜花、鶴河秋水、月島流星、小野白菊、鳳凰寺紅葉から、第5回は白菊をチョイス。フランスの思想家エリザベート・バタンテール(1944-)の主著『母性という神話』における議論との関連性が明らかとなった。

■厄介な良妻賢母

 普段の小野白菊は5人のヒロインの中で最も「家庭的」な価値観を体現している存在です。料理など家事を率先してこなし、主人公・粕壁隼を立て、優しくて慎み深く献身的な女性です。家族社会を基盤とするこの世界において、白菊という存在はとても「まっとう」な女性なのです。将来結婚して家庭を築けば、夫を立て、子育てにも抜かりがない良妻賢母を地で行くような女性として生きていくでしょう。

 しかしこの「まっとう」な性分が、彼女を考察する私にとっては非常に厄介です。私の今現在の状況を赤裸々に言うと、生活が不安定で未来の将来設計も明確ではなく家庭を築く見通しもありません。更に哲学芸人を標榜する悲しい性で、世間で多数が良しとする常識をこそ懐疑的な見方をするのが生業でもあります。取りも直さず、それは白菊が信奉する幸福とは真っ向から対立する筈なのです。

 もし私が白菊的な女性と現実社会で出会えば、互いに「この人は一体何が楽しくてこんな人生を送っているのか?」という感情を抱くことも予測がつきます。かつて私は人数合わせで向かった合コンにおいて、実際にこのような状況を目の当たりにしました。芸人として片道切符の人生を生きていることを公言すると、相手側の女性陣は「夢に向かって頑張っていらっしゃるんですね」と言いつつ、途端に態度が白々しくなりました。将来設計が描けない時点で、私に興味が抱けなかったのでしょう。そもそも私に男性的な魅力がなかったのかもしれませんが。そんなこんなを思い出し、白菊に向き合うと私自身、思考が停止する訳です。

 ただし、良妻賢母が信奉されて来た歴史的背景を踏まえると、少し私の考えにも納得する人が多くなるかもしれません。バタンテールの『母性という神話』を読んでいくと、その様子が明らかになっていきます。以下その内容を掻い摘んでご紹介します。

 バタンテールによると、「家庭」は、宗教的な絶対的権威や王政政治の絶対権力を模して構築されました。その過程で、「父権の絶対性」、即ち父親が家族の支配者であるという価値観が広まりました。哲学でその点を最も早く正当化したのは古代ギリシアの哲学者・アリストテレスだと言われています。その家庭に「家族愛」は存在せず、あるのは支配する男性-支配される女性という構図でした。

 また子供に対する扱いも現代とは全く異なっていました。多産多死で階級社会ゆえに貧困層が多数を占めていた時代、赤子が育つことは容易ではありませんでした。産んだ子供を養育学校や乳母に預けるケースも中世ヨーロッパまでは多かったようです。施設や乳母の生育環境は劣悪で、子供の死亡率は非常に高いものでした。しかし家の生計を成り立たせるため、あえて親は実の子を劣悪な環境に預け、そのまま一生我が子を気に掛けないケースが稀ではなかったようです。

■ルソーとフロイト

 近代になり、子供の教育環境を整えるべきだという機運が高まりました。そのきっかけになったのが1762年、フランスの思想家ルソーによって書かれた教育論の古典『エミール』です。この本は功罪両面があると言われています。子供の成育に関する知見を成熟させる嚆矢になりましたが、同時にルソーは男性が外で働き、女性が子供の教育や家事に特化するべきだという思想を打ち出し、それが「家族愛」の理想像として規定されます。また、後に心理学者フロイトは精神分析の側面から女性は本来的に忍耐強く、受け身的な存在であるという学説を提唱し、女性は生来、家事労働への適性があるとルソーの思想を補強しました。

 この前提、フェミニズムの立場から強い批判が出るのは言うまでもありません。しかし、かつては「これが新しい思想だ」と積極的に需要された訳です。男女平等が叫ばれて久しくなりながらも、良妻賢母的な価値観が何となく美徳とされ、家事や料理の出来る女性が結婚相手として良しとされる価値観が多くの人に未だ支持されています。それはルソーやフロイトが残した思想の残滓だと言える訳です。

 話を白菊に戻しましょう。彼女も隼に恋心を抱くヒロインの一人ですが、彼へのアプローチはルソーやフロイトの女性観に徹した方法を取っています。隼の未来について「お嫁さんをもらってカフェを営む」と述べるシーンがありますが(2巻#13「変わらない日常」)、恐らくこれは白菊自身が無意識的に隼と将来結婚してカフェをやりたいという願望が吐露したものであると私は解釈します。隼に好意を抱き、付き合いたいと思うのは他のヒロインも同様ですが、白菊は隼との具体的な将来設計に最も深く言及しているように思われます。

 そんな白菊ですが、酒を飲んで酩酊した際は一転して淫らになり、服を脱いで隼を誘惑します(1巻#1「ファミリア」他)。その人間の変わり様はジキルとハイドを彷彿とさせますが、私に言わせると、慎ましやかで受け身の女性という観念こそ近代理性の構築した偏ったイデオロギーです。酒を飲んで理性から解放された時、白菊自身すら気付かなかった白菊のもう一つの本質が出てきます。彼女の抱える両義性は、近代理性が強化されて以降、女性全般が抱えてきた両義性でもある訳です。白菊は日常理性に忠実に生きる分、タガが外れた時の反動も大きいと、私は見立てております。

 かつて私も白菊のように酩酊して寄りかかって来た女性に対し「自分に対して好意がある」と解釈してアプローチした結果、「勘違いするな」と手の平を返された事があります。私が白菊の言動を目にして思考が停止する根本には、この経験も起因しているのかもです。

 最後に小野白菊を一言でまとめるとすれば、「ルソー主義の実践ヒロイン」となります。そんな白菊ですが、シラフで自らキスを求めるなど、隼を巡る恋の競いを通じ、より自覚的に己の欲望をむき出しにしていきます(8巻#77「クリスマスパーティー」)。彼女のルソー主義も今後の展開で大幅に修正されるのでは、と予測しますが、果たしてどうなるものでしょうか。

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