大河『べらぼう』将軍徳川家治の子・家基18歳の早死 田沼意次が絡んでいたのか? 識者が語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(shinoburedo/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「べらぼう」第15話は「手袋が握る真相」。徳川幕府10代将軍・徳川家治の嫡男・家基の死が描かれました。家基は宝暦12年(1762)に生まれます。母は家治の側室・知保(蓮光院)。家基の養母は、家治の正室・倫子女王でした(女王は閑院宮直仁親王の娘。女王は家治の娘を2人出産しています)。家基は家治の後継として次期将軍(11代将軍)となるはずでしたが、残念ながらその時は訪れませんでした。

 『徳川実紀』(徳川幕府の公式史書)の安永8年(1779)2月の項目には、家基の死について記載されています。まず、家基は同月21日、鷹狩りをして、その帰途に東海寺(東京都品川区にある臨済宗寺院。3代将軍・徳川家光により創建)に立ち寄ります。ところが同寺にて「俄かに御不予の御けしき」、つまり急病となるのです。よって急ぎ帰ることになりました。

 病気平癒の祈祷も行われたようですが、その甲斐なく、3日後(24日)、家基は亡くなってしまうのです。享年18という若さでした。これにより、家治の息子はいなくなってしまったため、後に将軍継嗣問題が起こることになります。

 さて『徳川実紀』を見ていくと、家基がよく鷹狩りをしていた事が分かりますが、その始めは安永4年(1775)12月5日のことでした。浅草の辺りで鷹狩りをしたということです。亡くなった安永8年2月には21日だけでなく、4日にも目黒で鷹狩りをしています。

 家基は病弱だった訳ではありませんでしたので、その急死には疑念が持たれました。具体的に言えば、家基毒殺説があるのです。家基が将軍に就任することによる失脚を恐れた田沼意次による毒殺説。嫡男の豊千代(後の徳川家斉)に将軍職を継がせたいと念願する徳川(一橋)治済による毒殺説などがあります。

 『続三王外記』(作者は石井子彭)という書物には、家基の死には意次が絡んでいたのではないかという疑惑が記述されていますが、信憑性は低いと言えるでしょう(意次が推薦した医師・池原雲伯が家基に毒を盛ったのではないかとの説)。

 家治と意次の関係は良好であり、意次の立場も家治があってこそでした。その家治の嫡男・家基を意次が殺害することは普通に考えてあり得ないことでしょう。

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