NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、26日放送の第25回のラストで、大泉洋演じる源頼朝に悲劇的な運命が訪れました。
1199年1月13日、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は亡くなります。享年52。鎌倉時代後期に幕府関係者により編纂された歴史書『吾妻鏡』、同書には1196年から1199年1月までの記事がありません。つまり、頼朝が死んだ1199年1月の記事がないのです。
しかし『吾妻鏡』が、頼朝の死について全く触れていないかというと、そうではありません。頼朝の死から13年ばかり経った1212年2月28日(同書)の項目に次のようにあるのです。「去る建久九年(1198)、稲毛重成が(相模川に架かる)橋を新しく造った。その橋供養(橋ができ上がって、渡り初めの前に橋上で行う供養)に、頼朝も参列していた。その帰り道、頼朝は落馬された。それから時が経たないうちに亡くなった」と。
旧相模川橋脚は現在の神奈川県茅ヶ崎市下町屋一丁目にありますが、その橋供養が行われたのが、1198年12月27日。そしてその同じ日、橋を新造した稲毛重成(武蔵国稲毛荘を領する武士)は、同時に亡き妻の供養も行っているのです。重成の亡き妻こそ、北条時政の娘でした。つまり「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時の妹が、稲毛重成の妻だったのです。そう言えば、同ドラマにおいても、重成の妻が病弱であることを窺わせるシーンがありました。
それはさておき、頼朝の死因として、よく言われているのが、この落馬説でしょう。落馬が原因で程なく亡くなったというのです。
また、暗殺説というものもあります。これは『吾妻鏡』の1199年1月の項目にその死についての記載がないことや、頼朝の子・頼家も実朝も暗殺によって生涯を閉じていることから導き出されたものだと思います。北条氏の縁者の橋供養の帰途に何かがあったとして、北条氏の関与を疑う人もいるかもしれませんが、しかし、暗殺説については全く何の根拠もありません。
興味深い説として「亡霊説」もあります。14世紀中頃に編纂された歴史書『保暦間記』には、源義経や源行家、そして安徳天皇の亡霊が現れ、頼朝が病になったとあるのです。が、これも事実とは言い難いでしょう。
では、当時の人々は頼朝の死をどのように認識していたのか。貴族・近衛家実の日記『猪隈関白記』には「飲水病」(糖尿病)で重病となったと記しています(1199年1月18日)。鎌倉時代末期に編纂された歴史書『百練抄』にも、頼朝は病死したとの一文があります。
糖尿病で死去したかどうかは別にして、何らかの持病があり、それが悪化し亡くなったか、冬ということもあり、寒風に吹かれ、脳血管系の病気になって亡くなったと私は推測します。つまり、呪いでも暗殺でもなく、病死というのが私の結論です。