現在、放送されているNHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、人気俳優・大泉洋が鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝を演じている。この頼朝、実は数多くの謎に包まれた人物でもある。特に、正治元(1199)年正月13日に没したとされるものの、それ以外の死に関する記録が、まったくといっていいほど残されていないからだ。
『吾妻鏡(あずまかがみ)』は、鎌倉幕府内唯一の半公式記録といっていい史料だが、欠落している部分がある。その欠落している部分のひとつが「源頼朝の死」に関する記述である。『吾妻鏡』では、建久六(1195)年12月22日、頼朝が友人宅に遊びに行ったという記述を最後に、建久七(1196)年~建久十(1199)年1月までのものが、なぜかごっそり抜けて落ちている。再開されるのは「建久十(1199)年2月6日、頼朝の長男・頼家が後を継いで征夷大将軍となった」という記述からである。つまり『吾妻鏡』では一切、頼朝の死には触れられていない。
暗殺説や落馬が原因で死亡したとの説もあるが、定かではない。昭和七(1932)年4月に東京歌舞伎座で初演された歌舞伎の演目に「頼朝の死」というものがある。頼朝が女装して、浮気相手の家に侵入しようとしたところ、警備の御家人に切り殺されてしまう。そこで、北条政子たちが、その情けない死に方を隠蔽(いんぺい)するため「落馬で死んだ」ということにする。だが、父の死に疑問を持った2代目将軍頼家が、その真相を探るという荒唐無稽な話である。
徳川幕府を開いた家康が世界遺産にもなっている日光東照宮にまつられている。それ対して、頼朝の墓所はどうであろうか。確かに墓所とされる場所はある。今回、JR鎌倉駅から徒歩20分にあるその場所を訪れた。ここはかつての相模国鎌倉大蔵郷で、現在の鎌倉市二階堂、西御門、雪ノ下3丁目一帯で治承四年(1180年)~承久元年(1219年)の39年間、鎌倉幕府の将軍、鎌倉殿の居館・大蔵御所があった。