『鎌倉殿の13人』源頼朝と義経の兄弟対立は “生きるか死ぬか”の闘争 弟が兄を討とうとした複雑な事情

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(川崎市民団体Coaクラブ/stock.adobe.com)
画像はイメージです(川崎市民団体Coaクラブ/stock.adobe.com)

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼朝と義経という異母兄弟の対立が描かれ、注目を集めています。今回のドラマにおいては、好戦的でサイコパスな義経像が提示され、これまた話題を集めていましたが、最近では「キャラ変」をして、頼朝に追い詰められていることもあって、菅田将暉演じる義経に同情が集まっています。

 ドラマでは、義経が後白河法皇から頼朝追討の院宣(上皇・法皇の命令により、役人が出す文書)を賜ったことが描かれていましたが、ではなぜ、義経は頼朝を討とうと思ったのでしょうか?

 義経の視点から、兄弟対立の要因に迫ってみたいと思います。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)1185年10月18日の項目には、義経が「頼朝追討」の院宣が欲しいと願い出たことにより、法皇の御所にて会議があったとあります。京都においては、義経の他に都を守護する者もおらず、その意向を退けて乱暴を働いても一大事。ここは取り敢えず、院宣を出して、後で、頼朝に詳細を伝えれば、頼朝も怒ることはないだろうとの思いで、頼朝追討の院宣は出されたようです。

 『吾妻鏡』では、義経が腰越で足止めされて、鎌倉に入れなかったことで、義経は頼朝への恨みを増大させたと記されています(1185年6月9日)。そしてその直後(6月13日)、頼朝は義経に与えていた平家の所領だったもの(24カ所)を全て没収。同書における頼朝の論理は「義経が手柄を立てられたのは、私が御家人を援軍として貸したからだ。義経一人の手柄ではない。それであるのに、義経はこの度、関東に恨みのある者はこの義経に付いてこい等と言った。これはとんでもないことだ」というものでした。『吾妻鏡』は頼朝の怒りの前提として、義経の検非違使自由任官問題があるとしています。

 一方、当時の貴族・九条兼実が書いた日記『玉葉』を見てみると、義経にとっての怒りの要因は、少し別のところにあるように思います。同書には、義経挙兵の理由として、1185年8月に伊予守に任命された後、地頭を置かれて国務ができなくなったこと、一度は与えられた平家没官領20カ所を6月に没収されたこと、刺客を派遣されたこと等が記されています。

 平家追討戦で功績があったにもかかわらず、こうした処遇は酷いではないかというのが、義経挙兵の要因だったというのです。つまり、突き詰めて考えると、義経には恩賞に対する不満があったと言えましょう。また、地頭を置かれて国務を妨害されたということも、義経にとっては許し難いことだったように思います。しかし、頼朝からすれば、義経の不満は「何を言っているんだ」というものだったでしょう。義経は後白河法皇の許可のみで出陣し平家を滅亡させ、安徳天皇や三種の神器の完全なる確保には失敗。前述のような扱いを受けても、仕方なかろうと頼朝は思っていたように感じます。

 義経は、8月16日に、伊予守に任命されていますが、普通は国司に任命されたら、辞任するはずの検非違使に留任していました。九条兼実はこれを「未曾有」と表現していますが、この未曾有の人事には後白河法皇の意向があったと思われます。

 京都の治安維持を担う検非違使の留任により、義経は京都におらざるを得なくなる。頼朝としては、義経の鎌倉召還を希望していたはずだが、それが断たれたことになります。そこで、頼朝は伊予に地頭を置き、義経の国務を妨げたのでしょう。義経は壇ノ浦合戦後、平時忠(平清盛の義弟)の娘を側室に迎えています。後白河院や平家残党と結び付いて、義経が不穏な動きをするのではないかという疑心が、頼朝の胸に渦巻いたとしてもおかしくはありません。そうした二人の思惑のズレが完全破局の要因だったように思います。

 しかし、義経が仮に鎌倉に戻っていたとしても、後の源範頼(頼朝の異母弟)の運命(謀反の疑いをかけられて配流、その後、殺害)を見たら、残念ながら、義経にも似た末路が待っていたように感じます。義経も範頼も、頼朝から見たら、後継者である我が子・頼家の「邪魔」になりそうな者だからです。当時の権力闘争というのは、生きるか死ぬか、実に過酷だったことが分かります。

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