日本テレビ系「笑点」の大喜利コーナーで半世紀以上も〝おバカキャラ〟に徹してきた落語家・林家木久扇が著書「バカのすすめ」(ダイヤモンド社)を世に出した。「バカになるほど愛される」という自身の人生哲学をつづった本書の中、「バカの王様」という最大級の褒め言葉で紹介されている人物が天才漫才師として知られた横山やすしさんだ。その「嵐」のような破天荒さを全身で受け止め、とことん付き合った木久扇がリアルな交遊録を明かした。
【深夜の物干し竿事件】
初対面は「二つ目(初代木久蔵)だった昭和40年代半ば」。都内でのテレビ番組収録の休憩時間、やすしさんは寂しそうに1人で外の風景を眺めていた。「どうですか、東京は?」と気遣って声をかけ、電話番号を交換。「飲みに行きましょう」と言葉を交わして別れた。
数日後の夜、自宅に電話がかかってきた。「横山やすしや!六本木に飲みに行くで。出てこんかい!」。遠い場所に住んでいたこともあり、「すいません、明日、朝が早いので」と丁重に断ったが、やすしさんは「芸人が夜遊ばんで、どないするんや!ええから来い!」。それでも、なんとか電話を切って寝ていると、夜中の2時前くらいに家の前にタクシーが止まり、「ここや、ここや!」と聞き慣れた声が…。電話番号の交換時に住所を書いてしまったのだ。
居留守を使っても、やすしさんは「こら、出てこんかい!」と叫び、さらに塀を越えて庭に侵入すると、物干し竿(ざお)で窓をたたき出した。「こら、顔、見せんかい!」。観念して窓から顔を出すと、「おるやないか、こら!六本木、行くで!」と、そのままタクシーに乗せられて六本木にUターン。
それ以降、やすしさんが東京に来ると酒席に招集されるようになり、木久扇は飲み代を払いながらお客さんに謝ったという。
【銀座クラブでのエレベーター騒動と土下座】
銀座の高級クラブからの帰り、エレベーターに乗ろうとしたが、満員で入れない状態だったことに、やすしさんは怒り心頭。閉まりかけたエレベーターの扉に足を掛けて開いたままにして、「こらぁ、なんぼのもんじゃい!ワシはな、月収2000万や。お前ら80万か100万か知らんけど、2000万が乗れへんのに、なんで80万、100万が乗っとるんや。降りんかい!」。そうタンカを切って、乗客を蹴り始めた。
その後、やすしさんと木久扇がエレベーターに乗って降りると、罵声を浴びた人たちが待ち構えており、「失礼だろう!なんで人を蹴ったりするんだ。理由を説明したまえ」と抗議されたが、その行動に理由はない。木久扇は「でき上がっていて、本人は何を言ってるか分からないんです。本当に申し訳ありません」と土下座。その間も、やすしさんは「2000万やで!この80万が!」と叫んでいたという。
◇ ◇ ◇
こうした強烈な体験があっても、木久扇は逃げることなく、正面から受け止めた。1982年に自身が会長を務める「全国ラーメン党」を結成した際、やすしさんが副会長に就任したことからも分かるように、2人は固い絆で結ばれていた。
「つい、こないだのように覚えていますね。。立川談志さんもそうでしたが、僕は『型にはまらなくて、どうなるんだろうというような人』が好きなんですよ。7歳下のやすしさんには敬語を使い、やすしさんは僕と会う時には頭に『こらぁ!』って付く(笑)。居心地が良かったのかもしれません」
木久扇は「相手が年下であれ、敬語を使うのは大事なコツですね」と自身のスタイルを掲げる。そして、やすしさんと親密だった理由を次のように説明した。
「お店では僕がお客さんに謝って、タクシーでは席を蹴られた運転手さんに1000円札を3枚入れたポチ袋を渡したりしていた。それでも、お付き合いしたのは、その『ドキドキ』が面白く、魅力的だったから。純度が高いバカの煮こごりみたいな人。東京人の挨拶(社交辞令)を真に受けちゃう。ジャンルは違えど、芸人としてリスペクトしていた。本を何十冊も読むより、たくさんのことを学ばせてもらった。お酒で寿命を縮められましたが(※96年1月に51歳で死去)、濃い人生だったと思います。大変な目に遭っても感謝。なにより楽しかった。ただ、夜中に家に来られて物干し竿を振り回されるのは勘弁ですが(笑)」
「全国ラーメン党」の結成からちょうど40年。現役を貫く84歳の木久扇は、伝説となった不世出の芸人を懐かしんだ。