この乙姫も謎に包まれている。鎌倉時代の半公式文書『吾妻鏡』には次のような話だある。死去した大姫の代わりに、後鳥羽天皇への入内の話が持ち上がっていたが、にわかに高熱を発し建久十(1199)年6月30日(6月24日)死去してしまった。まだ14歳だったという。天皇家へ輿(こし)入れする話があった人物にもかかわらず、この乙姫の墓所も特定されていない。
遺体は「鎌倉殿の13人」の一人で、頼朝の側近・中原親能の亀谷堂の傍らに埋葬されたという。そのため、「岩谷地蔵堂」こそが、乙姫の墳墓堂だったという説も残っている。いったい大姫、乙姫はどこに眠るのか。これも鎌倉時代のミステリーのひとつである。