大河『家康』元康の妻・瀬名奪還作戦で男気を見せた武将の正体 情が薄い?実は真逆のキャラだった

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
イメージです(tk2001/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「どうする家康」第5回「瀬名奪還作戦」では、今川方に捕えられている瀬名(松平元康=徳川家康の妻)を奪い返すことを元康が決意。本多正信と伊賀忍者・服部半蔵が今川の本拠の駿府に潜入し、奪還作戦を敢行する様が描かれていました。

 では、実際は、どのようにして、瀬名(築山殿)とその子・竹千代(後の松平信康)を元康は取り返したのでしょう?

 永禄4年(1561)2月頃に、尾張国の織田信長と同盟を結んだ元康は、同年4月から東三河に侵入し、今川方と戦を繰り広げました。これは、駿河の今川氏真への元康の挑戦といって良いでしょう。そうしたこともあって、駿府にいる元康の妻子(築山殿と竹千代)に危害が加えられる可能性もありました。『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)には「竹千代を殺せ」「すぐ殺せ」「明日殺せ」という今川方の声が記されています。

 しかし、2人は殺されることはありませんで した。なぜか?同書によると、竹千代は今川の重臣・関口親永(氏純)の孫なのですぐに殺されることはなかったとのこと。

 そうしたなか、元康の妻子取り返しに尽力したのは、元康の家臣・石川数正(松重豊)でした。数正は「幼い若君が殺されるとなれば、お供をする者もない。人の目にも寂しく写ろう。我らが参り、お最期のお供をしよう」(『三河物語』)と述べ、駿河に下ったのでした。その数正の発言と行動に、身分の上下問わず、多くの者が感動したということです。

 ドラマにおいては、元康が数正に「お前は情が薄いからな」と咎めるシーンがありましたが、同書に記された数正の行動はそれとは逆。情ばかりでなく、敵地に乗り込む勇気もあったと言えましょう。永禄5年(1562)2月、元康は今川方の上之郷城(蒲郡市)を攻めて、鵜殿長照を討ち取ります。

 それだけではなく、長照の子息2人を捕虜とするのです。そうした折り、今川方から「鵜殿の子供と、元康の妻子との人質交換をしよう」と申し出てきます。その申し出に三河の者も喜んだようで、早速、人質交換が成立。元康の妻子は岡崎に入ることになります。数正は主君に大きく貢献したと言えましょう。

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