大河『どうする家康』今川義元はなぜ信長に敗れた? 諸説ある中、決め手はシンプルな理由 識者が解説

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(Area87/stock.adobe.com)
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 新たなNHK大河ドラマ「どうする家康」がいよいよスタートしました。その第1回目は「どうする桶狭間」と題して、史上有名な桶狭間の戦いが描かれました。その中では、松本潤さん演じる、肝のすわらない徳川家康が戦場を逃げ回るという、これまでの大河にはないある意味、斬新な?シーンもありました。実際には、家康はこの時、戦場から逃亡しようとはしていませんが、今回の大河は若い頃の家康を「弱虫」として描くようですので、このような描写になったのでしょう。

 では、今川義元はなぜ織田信長に桶狭間で敗れたのでしょうか?

 永禄3年(1560)5月8日、今川義元は三河守に任命されます。その2日後、今川軍は駿府を進発しますが、今川の部将・松平元康(後の徳川家康)は、先陣として、既に駿府を立っていました。大高城(現在の名古屋市緑区)に兵糧入れを行うためです。

 永禄3年の今川軍の尾張方面への侵攻は、義元が上洛するためではないかと考えられてきました。しかし、近年では、上洛説の根拠となる史料が近世の軍記物だとして、上洛説は影を薄めています。

 代わって台頭してきたのが、三河領有説や尾張侵攻説です。つまり、義元の侵攻の目的は、上洛ではなく、三河一国を完全に掌握するためのもの、そして、あわよくば尾張国を征服(領国化)しようとしたのではないかと考えられているのです。

 が、いずれにしても義元の野望は達成されることはありませんでした。同年5月19日、義元は、尾張の織田信長の攻撃を受け、桶狭間(尾張知多郡)で敗死するからです。 桶狭間の戦いは、小勢(織田軍、約2千)が大軍(今川軍、数万。諸説あり)を破った戦いとして有名です。よって、なぜ信長軍が勝つことができたのかが疑問とされてきました。

 その回答としては、長らく「迂回奇襲説」が通説となってきました。が、これまた近年では迂回奇襲説ではなく「正面攻撃説」が支持を集めています。

 では、なぜ正面から大軍を攻撃して、信長軍は勝つことができたのか?江戸時代初期に編纂された軍学書『甲陽軍鑑』の記述を基にして、今川軍が「乱取」(略奪)に夢中になっていて油断していたから敗北しているのではないかとの説も唱えられています。とは言え、『甲陽軍鑑』の史料としての信憑性などもあり、この説には疑問も寄せられています。私は信長の攻撃直前に「石氷を投げ打つよう」な急雨が降った(『信長公記』著者は信長家臣・太田牛一)ことも、織田軍の勝利に貢献したように思います。

 攻撃時には空は晴れていたようですが、今川軍の将兵の心を掻き乱したのではないか、地面に泥濘を生み、動きに くい状況が作られていたのではないか。また、義元は戦場にありながら安心し「緩々として謡」を謳っていたと言われています(『信長公記』)。

 一方の信長軍は決死の覚悟。この覚悟の差も、勝敗を分けたのではないでしょうか。更には、今川軍は全体で数万(一説には2万5千)だったといっても、義元本隊には「三百騎」(『信長公記』)という小勢がいたに過ぎません。そうしたこともあり、義元は討死し、今川軍は敗北したのではないか。私はそのように考えています。

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