その後の「鎌倉殿」北条義時の死と直後に乱れ飛んだデマ 息子・泰時に囁かれた”弟討ち”の疑い

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(warmtail/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、見た人に深い余韻を残しました。最終回のあともウェブ上を中心に話題は尽きない状況です。今回は“その後”に触れてみます。

 1224年6月13日、雨が降る日に、鎌倉幕府の2代執権・北条義時(小栗旬)は病で亡くなります。念仏を数十遍唱えた後に亡くなったようです。義時の死を受けて、妻の伊賀の方(ドラマでは、のえ)も同日、出家。

 その5日間には、義時の葬送がありました。頼朝が葬られている鎌倉の法華堂、その東の山上を義時の「墳墓」としたのです。「北条義時法華堂跡」(義時の墓跡)が鎌倉にありますが、現在は案内板などが立っているだけで、墓が残っているわけではありません。義時の墓は、火災による消失と再建を繰り返しながら、14・15世紀頃には廃絶してしまったと考えられています。私は今年、義時の法華堂跡を訪れたのですが、そのすぐ側には、三浦一族の墓(やぐら)がありました。

 「鎌倉殿」にも登場し、曲者として描かれていた三浦義村。その義村の子(三浦泰村・光村兄弟)の代に、三浦氏は北条氏により、滅ぼされてしまうのです(1247年、宝治合戦)。北条氏は5代執権・時頼の時代となっていました。義時の墓の側に、その子孫により滅亡に追い込まれた三浦氏の墓があるということに、何とも言えない気分となったことを今でもよく覚えています。

 三浦氏の「やぐら」には、水が入った多くのペットボトルやお花がお供えされていました。お花は綺麗でしたので、最近、お供えされたものと思われます。地元の人、もしくは観光客がお供えしたものでしょうか。それを見た時に、私はまた人間の心の温かさというものを感じたものです。

 さて、義時の葬送は、義時の子(朝時、重時。彼らの母は姫の前)、北条政村(母は伊賀の方)、三浦泰村、その他の宿老が中心となり、行われたといいます。その他にも、大勢の御家人が集まり、彼らは涙を流していたようです(『吾妻鏡』)。

 『吾妻鏡』の記載ですので、幾分、割り引いて考えなければいけないところもありますが、義時が慕われていたことを示す1つの証拠ではあるでしょう。6月28日には、都から戻ってきた北条泰時(義時の嫡男)が 、北条政子と対面。政子からは「北条時房(義時の弟)が、泰時の後見となり、政治を行っていくように」との仰せがありました。

 泰時は決定が早すぎるのではないかと心配で、大江広元に相談したところ、広元からは「決定が遅れて今になってしまいましたが、遅すぎるくらいです。遅ければ、世間の人が何かと疑いを持つでしょうから、早く決めるべきは、決めてしまいましょう」との言葉が。

 義時の死により、泰時は弟たちを討つために都から帰ってきたのではないかなどとの「デマ」が流れていたのでした。そうしたデマや不穏な動きを封じるためには、義時死後の体制を早急に整える必要がある。広元はそう考えて、泰時に助言したのでした。

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