プロレスの枠を超えた「人間力」で一時代を築いた〝燃える闘魂〟アントニオ猪木さんが1日に79歳で亡くなった。プロレスラーとしての戦歴の中、世界的に最も注目された一戦といえば、1976年6月26日に日本武道館で行なわれたボクシング元ヘビー級世界王者のモハメド・アリ(米国)との「格闘技世界一決定戦」。世紀の一戦をプロモートした伝説の興行師・康芳夫氏(85)がよろず~ニュースの取材に対し、幻に終わった猪木さんとウガンダのイディ・アミン大統領との対戦計画も含め、当時の状況を証言し、希代のカリスマを悼んだ。(文中一部敬称略)
猪木VSアリ戦は37か国に衛星中継され、14億人が視聴した世界的な一大イベント。72年4月1日、ノンタイトル戦ながら、日本武道館でアリVSマック・フォスターの世界ヘビー級15回戦を実現させるなど、アリ陣営に深く入り込んでいた康氏は、当時の日本では人気があったものの、米国では社会的地位の低かったプロレスの復権に猪木さんはかけていたと代弁する。
「僕は猪木君と一緒にアメリカでプロレスを見るためフィラデルフィアなどに行ったが、現地では『サーカス』や『アクロバット』扱いで、リングサイドは2ドルくらいの低料金。その現実を受け止めた猪木君は『何とかしたい』と本気で思い、『アリと戦いたい』という純粋な思いを伝えられて企画はスタートした。厳密なルールの確立されたプロスポーツそのものであるボクシングにプロレスラーとして挑み、アリという世界最強の王者に勝つことで証明したいと。アリ側はこの試合を『冗談』だと思っていたので、僕は猪木君の試合のビデオを送り、それを見た彼らは猪木君の実力と本気に気付いた。それで、彼らはルールで縛ってきた。プロレスとボクシングがルールなしで戦ったら圧倒的にプロレスが有利ですから」
試合で、猪木さんはリングに寝た状態でスキを見ては滑り込むようにローキックを繰り出した。プロレス技が封印される中、この戦法は必然だった。15回を戦い抜いて判定はドローだった。
康氏は「猪木君は試合中、一瞬、アリの腕を取ったのだが、彼は腕を放した。そこで腕をへし折れば勝っていたのに…。猪木君は僕にこう言いましたよ。『世界の黄金の腕は折れない』と。結果的に『世紀の凡戦』などと言われたが、猪木君は十分満足していた。本気で戦っていたからです。米国ではサーカス扱いされたプロレスへの見方に対し、アリと戦って勝つことでプロレスラーは本当に強いということを見せたかったわけで、それは成功したという自負があったからこそ、彼は『満足している』と言ったのではないか」と証言した。
この試合をプロモートした康氏は、79年に再び猪木さんの仰天マッチを企てる。対戦相手は独裁者として国際社会から非難されていたアミン大統領だった。
同年1月、都内のホテルで康氏と猪木さんがそろって会見し、元ヘビー級ボクサーだったアミン大統領との「夢の世界格闘技選手権試合」の概要が発表された。試合は同年6月10日、ウガンダの首都カンパラの屋外競技場(約3万5000人収容)で開催され、アリが特別レフェリーを務めるという構想も披露された。デイリースポーツ紙は会見翌日の紙面で「これからは、こんな物好きな大統領は現われないでしょう。私も物好きだから…。でも戦う以上は手加減しない」という猪木さんのコメントを報じている。
だが、同年4月、内戦によってアミンがサウジアラビアに亡命したため、試合は中止になった。康氏は「試合が実現して、猪木君がアミンに勝っていたら、大変なことになっていたでしょう。リングを取り囲んだ軍隊に撃たれていた可能性があった。そう考えると、中止になってよかったと思う」と振り返る一方、「その後も、猪木君はアミン戦を『絶対やりたかった』と言っていました」という。猪木さん流の「非常識」は健在だった。
リング外でも猪木さんとの交流は続いた。康氏は「名編集者から直木賞作家となった村松友視君を猪木君に紹介した。村松君は『私、プロレスの味方です』(80年)という本を出してベストセラーになっていて、猪木君は村松君と交際するようになり、そのことも良かったと思う。アミン元大統領がサウジアラビアで(2003年に)客死した時は僕と共に弔電を打った」と振り返る。
猪木さんの訃報を受け、康氏は「僕の人生の半分は猪木君と共有した部分があった。僕の人生において、とても重要な友達を失った寂寞(せきばく)たる思い、孤立感を覚えている。アリも6年前に亡くなった(2016年に74歳で死去)。そして、猪木君も亡くなって、いよいよ僕1人になってしまったので、寂しい気持ちはありますね」と当サイトに喪失感を吐露した。