田中ケロ氏、国技館暴動の夜に猪木さん宅に呼ばれた「誰も起こそうと思ってやってるわけじゃねえ」初めて聞いた弱音

杉田 康人 杉田 康人
アントニオ猪木さんを語る田中ケロ氏
アントニオ猪木さんを語る田中ケロ氏

 新日本プロレスのリングアナウンサーを務めていた田中ケロ氏(63)が1日、都内でよろず~ニュースの取材に応じた。数々の名勝負をコールし、リング上の最前線で猪木さんを見てきたケロ氏は「時間が経つにつれていろいろなことを思い出し、涙が浮かんできた。こんなに早く逝くとは思わなかった。やっぱり早いですよね。もう一度、満員の東京ドームに立ってもらって、猪木会長をコールしたかった」と、突然すぎる別れを惜しんだ。

 2021年8月にコロナが重症化し、約半年間入院。何度も3カウント寸前まで追い込まれたケロ氏は退院後の3月、都内で猪木さんと対面し「お互い、生死の境をさまよった仲だからな」と声をかけられたという。関係者から「調子があまり良くない」と近況を知らされていたが「また歩けるようになると思っていた」と、燃える闘魂の完全復活を信じてやまなかった。

 ケロ氏は大東文化大在学時、大学の卒論作成のため新日本プロレスを訪れた際「リングアナを探している」との情報を耳にし、履歴書持参で入社を直訴。1980年(昭和55)の8・22品川プリンスホテル・ゴールドホール大会で、リングアナとしてデビューした。「新間寿さんに連れられて、あいさつした時は『おおそうか、頑張れよ』と声をかけられた。顔がでかくて、目が大きな人だと思った」と初めての出会いを述懐する。

 リングアナとして、さまざまなアイデアを提案し実践したケロ氏。猪木さんからとがめられたことは、一度もなかった。「けっこう自由にやらせていただいた。コールに前口上を取り入れた時も『良かったな』と。身長体重のコールをセンチ、キロに変えた時も、何も言われなかった。猪木さんだったからできたこと」と懐の深さを振り返る。

 新日本プロレスで観客の暴動が起きた87年(昭和62)の12・27両国国技館大会後の深夜、猪木さんの自宅に呼ばれ、朝まで痛飲したという。「なあケロ、誰も暴動を起こそうと思ってやってるわけじゃねえんだよ」との弱音を聞き、初めて「人間・猪木寛至」の姿を見たという。

 90年2・10東京ドーム大会の試合後、リング上で初めて「1、2、3、ダァ~」を披露した猪木さん。6万人の前で「ダァ~」を提案したのはケロ氏だったが「1、2、3」は、猪木さんのアドリブだったとう。「最初は1、2、3でダァ~!という説明だったのに、よく聞くと『1、2、3〝アッ〟ダァ~!』と叫んでいる。こういうやり方があるのかと思った」と舞台裏を明かす。

 2000年代に入り、猪木さんが格闘技志向に。反発するケロ氏との関係が悪化した。関係者が「ケロが猪木さんの悪口を言っている」と吹き込み、猪木さんから「ケロ、お前オレのこと嫌いなんだってな」と言われたという。何も言い返さなかったというケロ氏は、自ら新日本プロレスを去る。「新日本プロレスの試合に自信を持ってほしかった。格闘技に走り、プロレスに批判的だった猪木さんに『それは違う』と思っていた」と、一時は愛憎相半ばするものがあった。

 猪木さんが設立したIGFのリングアナとして再びコールするようになり、2010年ごろからギクシャクした関係も徐々に雪解けした。猪木さんから「ケロ、オマエ発想はよかったんだけどな」と、皮肉を言われるまでに修復したという。最後の〝猪木コール〟は、2020年10月に幕張メッセで行われたライブイベント「夏の魔物」。リング上での「燃える闘魂!アントニオ猪木入場!」の絶叫は、かなわなかった。

 アントニオ猪木という存在について「感謝というのも照れるし…あこがれの存在。あこがれの存在というのは変わらない」と語る。「何事も、ひとつ達成してもそこに満足せず、常に次を目指していかれる方。新しいことをやってお客さんを驚かすということに関しては、すごく勉強させていただきました」と、ケロ氏の生き方にも猪木イズムは息づいている。

 病魔との激闘で3カウントを聞き、猪木さんは天国へと旅立った。「プロレスラー・アントニオ猪木というのは、猪木会長が背負ってきたことですから。24時間、アントニオ猪木じゃなきゃいけなかった人。最後までこういう姿になっても、戦う姿をファンに見せていた。かっこよかったです。最後まで、アントニオ猪木でした。猪木寛至ではなく、アントニオ猪木でしたよと伝えたい」と声を絞り出した。

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