兵庫県尼崎市出身の筆者が頻繁に聞かれる質問がある。
「尼崎の市外局番って何で06なん」
私に限らず、尼崎市民の多くはその答えをなんとなく知っている。大阪府に隣接している尼崎には大阪の企業の支社が多く、同じ局番の方が電話料金が安いから同じ局番にしてもらったというものだ。
だが、それが絶対的に正しい事実かと言われると不安にもなる。尼崎市民として、一度きちんと調べようじゃないかと思い、10年以上通っている居酒屋「きのくにや」へ向かった。高齢の客も多いので、当時のことを知っている人がいるかもしれないと思ったのだ。
60代男性「その当時の事知ってる人って今90とかで、当時その会社で働いてた役員やろ」
80代女性「うーん昔過ぎて覚えてないなぁ」
2人の方に話を聞くことが出来たが、有益な証言は得られず。サーモンの刺身と生ビールを流し込み「尼崎市立歴史博物館」へ向かった。こちらは10000年前から現在までの尼崎の歴史を紹介している博物館で、関連書物なども多数アーカイブされている施設だ。
職員の方によると尼崎市の市外局番が「06」になった経緯に関わっていたのは「尼崎紡績(現 ユニチカ株式会社)」、「尼崎商工会議所」、尼崎市の三者だということ。
話はなんと100年以上昔の明治26年(1893年)まで遡る。その頃、大阪には電話が開通していたが、尼崎はまだ開通していなかった。そのため尼崎屈指の大企業だっだ尼崎紡績は、大阪の関係先と電話する為に自社で電話線のパイプを川をまたいで引っ張り、大阪電話交換局へ回線を寄付したという。この時点で、尼崎市内で電話が出来るのは尼崎紡績内のみだった。
その後、明治41年(1908年)、尼崎に尼崎交換局という通信施設が出来た。以降、尼崎でも電話が普及してゆく。
尼崎は大阪のすぐ隣という立地ゆえに大阪の支社が非常に多い。平成4年発行の「尼崎商工会議所八十年史」によると、当時の大阪・尼崎間は、当時管轄が別なのに電話数が多く「早く繋げ」「回線がふさがっています」の口喧嘩が絶えなかったのだとか。
そこで、尼崎市と商工会議所が日本電信電話公社に掛け合った結果、2億円超の債権を尼崎が請け負う形で、昭和29年(1954年)に大阪の電話回線が尼崎に引かれる事に。
尼崎市は工場や新規電話加入者などに頼み込み、費用を回収しようとした。ただ、払おうが払うまいが電話回線は順次敷かれていく。結果、払う払わないに関わらずすべての人が大阪の市外局番が得られる事になり、払った人は非常に腹を立てたという。中には度を過ぎたクレームもあり、商工会議所の運営に支障をきたしたこともあるそうだ。
ともあれ、大阪・尼崎間の電話代は晴れて1通話14円から半額の7円に。昭和37年(1962年)に市外局番が導入された際も大阪と尼崎は同じ「06」が割り振られた。大阪局内となった尼崎は現在にいたる大きな発展を遂げたので、尼崎市と商工会議所の判断は結果的に英断だったと言えるだろう。
本稿の取材も終盤に差し掛かる頃、ふと気になり18歳の弟に「市外局番って知ってる?」と聞いてみた。さすがに知っていたが、小学校高学年で何度か固定電話に掛けたことがあるから知ってるだけで、あとはずっと携帯電話を使っているから局番を意識する事はほとんどないそうだ。
「僕より数年下の世代だと知らない人が多そうやな…」
確かに今は小学生にもスマホが普及している時代。電話番号を気にせずタップひとつで通話…いや電話番号すら使わずSNSで済ませるこも多い。尼崎の「06」問題について言及するニュースももしかするとこれで最後になるかもしれないと思った。