「東洋の神秘」の異名を持つ伝説のプロレスラー、ザ・グレート・カブキ(本名・米良 明久)がコロナ禍の中、東京・小石川で営む居酒屋「BIG DADDY酒場 かぶき うぃず ふぁみりぃ」で厨房(ちゅうぼう)に立ち続けている。現在73歳のカブキが、よろず~ニュースの取材に対し、近況や毒霧誕生の秘話、盟友レスラーや今後に向けた思いなどを語った。
同店は飯田橋で18年、現在の小石川に移転して6年、看板を掲げて計24年。まもなく四半世紀になる。地下鉄の後楽園駅や春日駅から東京ドームを背に大通りを歩き、庶民的な商店街に入って通り抜け、小学校の横を通り過ぎた先の道沿いにある店だ。飯田橋の店舗跡地では従業員だった元女子プロレスラーの元気美佐恵が「居酒屋ねばーぎぶあっぷ。」を経営しており、カブキは妻の安子さんと小石川で店を切り盛りする。
東京都での「まん延防止等重点措置」に伴い、午後5時から同9時(酒類の注文は同8時まで)の時短営業を続ける。安子さんは「ありがたいことに、いま来られるのは常連の方ですが、おひとりで来られるお客様が多く、グループは少ないです。40代、50代の会社的に立場のある方が多いですので、飲みに来られない方も」と現状を明かす。カブキは「カウンター席のついたてだとか、ビニールを降ろしたり、リスクを負わない店にすることが大変だったですね」と振り返る。
「赤い毒霧」という人気メニューがある。「キムチちゃんこです」と笑うカブキは、その名の由来である毒霧を吹く自身のキャラクター誕生を語った。1981年1月、米テキサス州ダラス、フリッツ・フォン・エリックが主催する団体での出来事だった。
「(元プロレスラーでマネジャー兼ブッカーの)ゲーリー・ハートが雑誌を持ってきて、『お前、こういう格好できるか』と言ったのが、歌舞伎役者の写真だったんです。さらに『こんな風にマスクしてくれ』と言うから、『これはマスクじゃないよ、顔にペイントしてるんだよ』」と答えた。『やったことあるのか?』『ないけど』『じゃあ、やってみるか』ということで名前もカブキに変えた。最初は、日本刀を持って、ガーッと構えて、2、3回振ったりしたけど、面白くないなと思って。じゃあ、ヌンチャクの方が面白いかなと思って、ヌンチャク振り始めたら、子どもが食いついたんです」
64年に日本プロレスに入門し、出身地の宮崎県にちなんだ高千穂明久のリングネームに。70年代は日米双方で活躍したが、81年、カブキに生まれ変わった。毒霧のヒントは「シャワー」だったという。
「シャワーを浴びてる時に顔を洗おうとすると、どうしても水が口の中に入っちゃう。アメリカのシャワーは(位置が)高くて、そうなっちゃうんですよ。それで、口に入った水をライトの方に向けてフッと吹き上げたら、そこに虹がすーっと流れて、『おお、これだよ、これ!』と。それで、毒霧ができ上がったんです。最初は、いろんな色の毒霧を作った。赤青黄色緑とか。どの色がきれいに上がるかと思ったら、やっぱり、赤と緑だったですね」
83年、全日本プロレスに凱旋。「日本に帰る前は『カブキ?見たことないな』と言われていたのが、帰国したら、『あっ、高千穂だ』って(笑)」。90年代は、新日本プロレスで暴れた平成維震軍をはじめ、インディー団体など幅広く活躍し、98年に後楽園ホールで「49歳と364日」をもって最初の引退。21世紀に復活し、2017年12月、ノアの後楽園大会で完全引退となった。
同店の主催で「カブキ祭り」というプロレスイベントを2008年、14年、18年と新宿FACEで開催したが、カブキは「今はコロナがあって無理ですね」。安子さんは「落ち着いたら、最後に1回くらいできれば」と付け加えた。
レスラー同士の連絡は「お互いに生活があるみたいで」ということで頻繁にはないが、ノアの齋藤彰俊とは家族ぐるみの付き合いだ。「東京で試合があると、うちに泊まってるんですよ。一緒に店で飲んだりね。平成維震軍の頃からだから、もう28年くらいになりますかね」。同軍で共闘した越中詩郎、カブキの息子ムタである武藤敬司ら縁のある有名レスラーも同店を訪れた。スタン・ハンセンが来店時、記念に置いていったテンガロンハットも大切に飾られている。
カブキは「(プロレス界も)大変な時ですけど、ここで頑張ってもらわないと。店はあと何年やっていけるかなと言う感じですね。1日1日、やっていきます」。プロレスファンや盟友に見守られながら、妻との二人三脚で料理の腕を振るう。