大河『家康』本能寺の変→徳川家康の驚きの行動と伊賀越え 運命の分かれ道と激闘で生き残る 識者語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(Paylessimages/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「どうする家康」第29話は「伊賀を越えろ!」。天正10年(1582)6月2日、織田信長(岡田准一)が家臣の明智光秀(酒向芳)により討たれるという大事件が起こります。事件当時、徳川家康(松本潤)や武田旧臣の穴山梅雪は、堺にいました。5月29日に、信長側近の案内で、堺に入っていたのです。6月1日には、堺の商人・津田宗及の茶会が開催され、また接待などもあり、家康は堺を満喫していました。

 そして6月2日。家康一行は、京都に戻る予定でした。家康は堺を出発。だが、先発していた徳川の臣・本多忠勝は、茶屋四郎次郎(京都の豪商)と枚方(大阪府枚方市)で出会い、本能寺の一件、つまり信長が光秀に討たれたことを知ります。茶屋四郎次郎は、この大事件を家康に知らせるべく、馬で駆けつけたのです。

 忠勝と四郎次郎は、すぐに家康のもとに向かい、その事を報告。「信長死す」の報せを受けた家康は、当然、驚きます。そして、逃げるのではなく、そのまま上洛しようとするのです(『徳川実紀』)。

 上洛し、京都・知恩院(浄土宗の総本山の寺院)にて、切腹せんとしたのです。信長に殉じようとしたのでした。家康の側にいた重臣は、主君の決断に異を唱えます。

 家康はついに折れて、先ずは領国に戻り、軍勢を整えて、光秀を討とうということに落ち着きます。堺まで家康と同行していた穴山梅雪は、家康と別のルートで戻ろうとします。

 それが、運命の分かれ道となります。梅雪は、宇治田原(京都府宇治田原町)で、落武者狩りに遭遇、落命してしまうのです。家康も落武者狩りに遭う可能性は十分ありました。しかし、家康は宇治田原、南近江を経て、伊賀に向かい、伊勢国加太(亀山市)・関・亀山・四日市と進む。そして、白子(鈴鹿市)から船に乗り、6月5日に、大浜(愛知県碧南市)に辿り着くのです。

 家康は無事に岡崎城に帰城することができたのです。かなりの強行軍であり、途中、落武者狩りの危険もあり、家康一行は精神的にも疲弊したでしょう。

 かつて、家康は、信長の伊賀攻めにより、避難してきた人々を保護したとされます(『三河物語』)。そのこともあって、家康が今回、伊賀を通った時に、伊賀の人々が「御恩返しを」ということで、家康を送ったとのことです。この逸話が本当だとしたら、家康の人情が、彼の生命を救ったことになるでしょう。 

 また、 家康に仕える服部半蔵(先祖が伊賀の出=山田孝之)が、伊賀の土豪と交渉し、家康を危難から救ったとする逸話も残っています。

 家康の家臣・松平家忠はその日記(『家忠日記』)において、伊賀越えの際「此方の御人数、雑兵ども二百余りうたせ候」(家康勢が雑兵を200人ばかり討ち取った)と記しています。伊賀越えにおいて、それなりに激闘が展開されたことが窺えます。

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