大河『家康』瀬名に近づく「減敬」の正体 一線越えた“不倫”説も 武田と通じ最後はとんずら 識者語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(K.Nakano/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「どうする家康」の第24話は「築山へ集え」。同ドラマにおいて、徳川家康の正室・築山殿(瀬名、演・有村架純)は平和主義で温厚な性格に描かれていますが、『改正三河後風土記』 という歴史書(徳川氏の家臣・平岩親吉が1610年に記したとされる『三河後風土記』を、江戸時代後期の歴史家・成島司直が徳川幕府の命令により改撰した書物。史料としての価値は高くないと考えられている)では、嫉妬深い悪女として位置付けられています。

 家康が浜松にいて、側室に男子・女子を産ませたことを妬ましく感じ、恨みの手紙を岡崎から家康に送ったとも記されています。そうした状態であったので、家康も築山殿を疎ましく思い、交流は途絶えていったといいます。

 そうした時、築山殿は病となります。祈祷させても、名医が薬を勧めても、病は良くなりません。どうしたものかと思っていると、そこに、甲斐国から減敬という唐人(中国人)医師が現れるのです。ドラマにおいては、減敬の正体は、武田重臣・穴山信君でしたが、果たして、減敬とは何者でしょうか。

 減敬の医師としての評判を聞いた築山殿は、彼を召し寄せます。減敬が調合した薬を飲んだ後は体調が良くなるということで、築山殿は減敬を頻繁に側に召すようになります。ついには一線を越えて、男女の仲になったとのこと。そればかりか、築山殿は減敬を通して、甲斐の武田勝頼にけしからぬことを申し入れます。それは「我が子・信康を武田方に加勢させます。そして、家康を滅ぼす。それが成就したら、徳川の旧領はそのまま信康に与えて欲しい。私は、武田家臣の妻にでもしてください」との内容でした。

 減敬からこの事を聞いた武田勝頼は、起請文(誓約書)を書いて、減敬に与えます。「信長と家康を討ち滅ぼした暁には、家康の所領は言うに及ばず、信長の所領のなかからも、希望する一ヶ国を与えよう。小山田兵衛という大身の侍は、昨年、妻を亡くしたばかり。築山殿はその者の妻としよう」との勝頼の起請文は、減敬から築山殿の手元に届きます。

 築山殿は大いに喜んだとのこと。減敬は、武田家・築山殿方の双方から金銀を賜ったようですが、暫くして、行方知れずとなります。この逸話をそのまま受け取るならば、減敬は儲けるだけ儲けて、とんずらしたと言えるでしょう。

 築山殿は悲劇的な最期を迎える事になりますが、ドラマではそれはどのように描かれるのでしょうか。

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