ちばてつや「どうしても勝てない、少女マンガから身を引きました」里中満智子、竹宮惠子、水野英子と語る 

山本 鋼平 山本 鋼平
シンポジウムに参加した(左から)水野英子、竹宮惠子=神奈川・相模女子大
シンポジウムに参加した(左から)水野英子、竹宮惠子=神奈川・相模女子大

 日本マンガ学会のシンポジウム「再検討・『少女マンガ』史」が2日、神奈川・相模女子大で行われ、第2部「『少女マンガ』はどこから来たの?」に漫画家の水野英子(83)、竹宮惠子(73)が参加。ちばてつや(84)、里中満智子(75)はオンラインで加わり、1950~60年代の作品、1970年代への影響など「少女マンガ」について意見を交わした。

 少女時代に水野、ちばの作品を愛読した里中と竹宮が漫画家になり、世代を超えて「少女マンガ」の表現を進化させる歩みが語られた。

 水野は小学校3年生で手塚治虫「漫画大学」に衝撃を受け、漫画家を志した。中学生時には雑誌「漫画少年」への投稿を続け、佳作止まりだったが手塚の「リボンの騎士」を担当した編集者に見いだされ、プロの道へ。映画、小説など海外作品からの影響を昇華させ「銀の花びら」(1958年)、タブー視されていた男女のロマンスを描いた「星のたてごと」(1960)を発表。石森章太郎、赤塚不二夫と「U・マイア」のペンネームで合作したのを機に上京し、トキワ荘で暮らしたことでも知られる。1969年の「ファイヤー!」では少女マンガながら男性を主人公にし、ヒッピー文化など当時の世相を反映させた。「外国の作品には必ずロマンスが出てきます。男が女に敬意を持っていて、日本とは全然違いました。男ばかり描いていたので、後の『ファイヤー!』ではうまく描けました」と振り返った。

 ちばの雑誌デビューは少女誌だった。「少年マンガを描きたかったが、少年誌にスキマがなかった。ただ私の漫画家人生の幅が広がる経験だったと感謝しています」と語った。「ママのバイオリン」(1958年)、「ユカを呼ぶ海」(1960年)などの作品を残した。

 里中は小学校入学時から「なかよし」を定期購読し、手塚作品などマンガに親しんだ。貸本屋で少年誌、少女誌をくまなく読み、高学年になると、さいとう・たかを、楳図かずおらの劇画にも触れた。一方、少女マンガに対しては「お母さんどうして亡くなったの、と星空を見てめそめそ泣いたり、けなげに我慢していると王子様が現れて幸せにしてくれる、という話ばかりで、なんだかなあと思いました」と不満を抱いていたという。竹宮も「それは私も同じです」と同意した。

 里中、竹宮に不満を感じさせない作家が水野とちばだった。里中は「水野先生の作品は主人公が幸せにしてもらうのではなく、男女が対等に描かれていました。ちば先生の『ママのバイオリン』では、少女マンガはうまく話が進んでいくものなのに、なかなかうまくいかなくて、油断のできない展開でした。『ユカを呼ぶ海』では女の子が自立していて、すごく女の子のことが分かっていると思った。ペンネームは男性でしたが、本当は女性だと信じていました」と回想した。竹宮の両親はマンガに否定的だったというが、水野の「星のたてごと」は、母と一緒に愛読したことを記憶している。

 「ユカを呼ぶ海」では、ユカが悪ガキをひっぱたくシーンがある。ちばは「シンデレラのように、いじめられても我慢していれれば王子様が現れる、といったものを描くストレスを感じていました。もっと怒れよ、と思って描くと編集者に直された。(ひっぱたくシーンは)締切間際のスキを突いて、我慢せず思った通りに描きました。するとそのシーンにたくさんの手紙が来て、私は吹っ切れて、生き生きと描けるようになりました」と、読者の反響に感謝した。

 当時の雑誌には作家の住所が明記されており、編集部に加え、ちばの自宅にも多くの手紙が届いたという。「さすがに女性作家の住所は編集部付きになっていましたが、のどかな時代でしたね」と語ると、水野は「私は住所が載っていました。守られていない」と指摘。里中も「思春期の頃、水野先生にファンレターを送りました」と呼応した。

 里中が送ったカット入りのファンレターは、漫画家になれるかを相談する内容だった。「絵だけ見ても分からない、作品を完成させて送って下さい、と返事をいただきました」と里中は今も感謝する。水野のエールを糧に作品を仕上げ「水野先生に送ろうとした時に、新しい賞ができたのでそちらに送りました」と16歳の時、第1回講談社新人漫画賞への応募作が1位入賞。そのままデビューに至った。

 竹宮は1967年に「COM」でデビュー。程なく少女誌にも進出し幅広いジャンルの作品を描いた。1976年に「週刊少女コミック」で「風と木の詩」の連載を開始。少年愛をテーマにした同作は多くのフォロワーを生み、耽美系と呼ばれ、後のBL作品への礎を築いた。前代未聞だったモチーフの同作の連載を始めるために、実績作りを意識して同誌で1974年に開始したのが「ファラオの墓」だった。「ロミオとジュリエットのような悲恋を描こうとしましたが、苦手でした。水野先生の作品を読んで勉強しましたね」と振り返った。

 3人の女性漫画家の関係を楽しそうに見つめていたちばてつや。「僕は男4人兄弟で育ったので、殺伐とした部屋しか描けないんですよ。竹宮先生、水野先生、里中先生が描くキレイな部屋を見て、どうしても勝てないと思い、少女マンガからは身を引きました。僕は少年マンガ、青年マンガに逃げました」と謙そんしながらも、少女マンガの成長の過程を喜ぶ様子が印象的だった。

 今回のシンポジウムの出発点となったのが、1999年から翌年にかけて実施された「少女マンガを語る会」だった。1950年代から70年代の少女マンガの資料、証言、逸話が不正確であることを危ぐした水野が発起人となり、50年代にデビューした上田トシコ、高橋真琴、牧美也子、望月あきら、ちばてつやら漫画家、当時の編集者が参加。約20年後の今年6月、書籍「少女マンガはどこからきたの?―『少女マンガを語る会』全記録―」(青土社)にまとめられ発売された。

 シンポジウム終了後、水野は「少女マンガと思って描いてきたわけではない。カテゴリーは考えていなかった」と自身の創作姿勢を示しつつも「間違ったことが残るのは…みんな本当に自費で活動していました」と、「少女マンガを語る会」の結実に感慨深げだった。竹宮は「ファラオの墓」の恋愛シーンで、参考に水野作品を選んだことについて「形がキレイで見せ方がシックなんです」と説明。次作の「風と木の詩」では少年同士のロマンスを見事に描いたが「同じ人間同士なので恋愛に差はありませんが、『ファラオの墓』で勉強したことが生きました」と語っていた。

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