映画ほど時代の変化に振り回されるメディアは他にないのではないだろうか。その誕生以来、幾度も窮地に立たされつつも生き残ってきたのだが、昨今の状況を見ると、映画そのものの定義が大きく変わる時期にきたと感じる。特にそう思わされた2021年であった。
まず映画がこれまで、いかに振り回されたのか触れてみよう。その誕生は1895年。シネマトグラフと呼ばれた映画の原点はフランスで生まれた。写真が動く「動く映像」は当初、大きな話題となった。「映像が動く仕組み」が理解されると、映画はあっという間に広まった。しかし、映画が当たり前になるとすぐに飽きられ、ここで一度目の危機が訪れる。
ところが、演出や編集、アングルの変化で物語の構成が可能であることが分かると、映画が娯楽作品として成立するようになった。やがて、巨大産業となり、アメリカではハリウッドが形成され、1910~30年代に黄金期を迎える。しかし、40年代に入ると、テレビの登場によって劇場から観客が離れてしまった。その影響で大手制作会社は衰退し、娯楽大作は減少するものの、代わりに若手監督が台頭。低予算ながらも刺激的な作品を生み出すことによって、映画そのものは失われずに済んだ。
1980年代になると家庭用ビデオデッキの普及とそれにともなうレンタルショップの乱立で、再び映画は窮地に立たされるかと思われたが、ビデオソフトの売り上げは新たな収益源となり、劇場公開とビデオ販売との両立が確立した。90年代以降はシネマコンプレックスが増加し、3D、4D上映、さらには絶叫可能上映など特別な劇場体験をうたうことで映画館への来場がうながされた。
そして、インターネットの登場である。Netflixの配信映画として発表された『ROMA/ローマ』(2018年)はアカデミー賞3部門を受賞。この出来事は映画の定義がふたたび大きく変わることを感じさせた。もはや映画は、劇場公開を前提としないことが示された。
そしてコロナ禍によって、ネット配信という新たな鑑賞形態の浸透が加速した。
昨年のクリスマス、ピクサーの「ソウルフル・ワールド」は劇場公開を断念し、Disney+での独占配信のみとなった。「ゴジラVSコング」は公開まで1年以上待たされ、アメリカでは今年3月に劇場公開と同時に配信が行われた。マーベル映画の「ブラック・ウィドウ」も公開が伸びに伸び、アメリカでは7月に劇場公開と同時にネット配信を行ったことで、当初劇場での独占公開として出演契約していた主演のスカーレット・ヨハンソンはこれを違反として提訴している。
スマホでも簡単に動画を見ることが可能になったことで、映画はどこでも気軽に楽しめることが当たり前になってきた。配信公開の方が、徐々に標準化しつつあると感じる。
ビートルズのドキュメンタリー「ゲット・バック」の劇場公開は当初「2021年8月27日」とされていたものの、のちに「11月25日~27日」に延期され、Disney+での配信のみと改められた。2時間だった上映時間は、配信版ではそれぞれ2時間の3部作で合計約6時間と、大幅に伸びた。ファンにとっては喜ばしいことではあるが、劇場で観られなくなってしまったのは残念である。かといって、6時間の作品を劇場公開したところではたして集中力は続くものだろうか。劇場の上映回数も限られる。配信で休み休み好きな時間に鑑賞するというのも、特にドキュメントにおいてはそれほど悪いこととも思えない。
劇場か?配信か?映画としての定義が大きく変わろうとしているのは間違いない。その答えがハッキリするまで、もう間近な気がする。