1970年代前半にミリオンヒットを連発した沖縄出身の兄妹5人組グループ「フィンガー5」の晃(あきら)が7月31日、今年初のソロ公演となる還暦記念ライブを都内で行う。晃はよろず~ニュースの取材に対し、改めてフィンガー5の音楽性を検証し、あの「伝説のバンド」とのエピソードを披露した。
ベトナム戦争の時代、米兵たちが訪れるバーを営む父の元、晃は幼い頃から洋楽を吸収した。
「基本的に僕たちはソウル系ですけど、基地で演奏する時は、はやりのロック系をやった。兄貴たちとモンキーズの『ステッピン・ストーン』とか踊れる曲を」。この「ステッピン・ストーン」はフィンガー5のセカンドアルバム(74年)に収録されているが、その後、ロンドンのパンク・ムーブメントをけん引したセックス・ピストルズも同曲を偶然にもカバーしている。そして、これまた接点がなさそうでいて、実は「対バン」 (同じライブに出演) していた日本のロック史に名を刻むバンドがあった。キャロルだ。
接点は、ミュージシャン、俳優など多彩な顔を持つミッキー・カーチス。72年にフジテレビ系の番組「リブ・ヤング!」に出演した無名時代のキャロルに衝撃を受けて同局に電話をかけ、速攻でレコード会社と契約したという逸話で知られる。晃は兄や妹と沖縄から上京し、70年に「ベイビー・ブラザーズ」としてデビューしたが、不遇の時代にあった。
「売れなくて沖縄に帰ろうとしたらミッキーさんから声がかかってレコード会社を移籍。フィンガー5に改名しますが、僕たちの担当ディレクターがキャロルも担当していた。僕らがレコーディングしている時にキャロルが隣のスタジオにいて、見に行ったりして仲良かったんです。コンサートも一緒に何回もやって楽しかった。僕らが前座やったり、逆にキャロルがフィンガー5の前座やったり。会場はすごく異様な風景で、客層は片方がハーレーのバイクに乗ったリーゼントのお兄さんたち、こちらは子どものファン。メンバーはみんないい人で、僕らは子どものバンドだから張り合う必要もないし、かわいがってくれた」
中でも「あの人」の個性は強烈だった。「矢沢永吉さんは楽屋でウリ型のベースを持って、『晃、ちょっといいか。これでひともうけして、俺はビッグになるから』って小6の僕に言ってましたよ。『マジメな人だな』と思いました」
沖縄返還の翌年、フィンガー5は大ブレーク。73年8月発売の「個人授業」から3曲連続でミリオンセールスを記録。末弟で変声期前のメインボーカルだった晃は、ジャクソン5のマイケル・ジャクソン的な立ち位置で、ハイトーンボイスとトンボメガネ(サングラス)で人気アイドルとなった。
「レコードの売り上げ枚数は、『個人授業』が145万枚、『恋のダイヤル6700』が165万枚、『学園天国』が105万枚と言われています。3か月おきに出していて、今思うと間隔が短すぎてもったいなかった。その後も『恋のアメリカン・フットボール』など70―80万枚はいきました。サングラスはラジオ番組で布施明さんがしているのをマネたんです。歌手の小道具のはしりですかね」
さらに、晃は音楽面からフィンガー5を語った。
「ベースになるのはモータウン系のソウル。ファンクもやったけど、日本では早過ぎた。コンサートではモンキーズ、カーペンターズ、ジャクソン5、トム・ジョーンズなど洋楽のカバーを歌ってダンスするバンドでした。『個人授業』は元々、シングルB面で、ギターを弾いているのが高中正義さんなんですよ。遊びが入っていて、あの時代にエフェクターをガンガン使っていた。(当初A面だった)『フィンガー5のテーマ』はジャクソン5の『インディアナへ帰ろう』に影響されていて、歌詞は兄貴が沖縄の方言を入れました」
音楽の話は尽きない。コロナ禍で1年以上、ステージから遠ざかったが、江木俊夫(フォーリーブス)、あいざき進也、高道(狩人)との4人組ユニット「T4」のライブを今年6月に開催。早々に完売した7月31日のソロライブは同会場での昼の部を追加公演としたが、東京に4度目の緊急事態宣言が出され、延期や中止も考えたという。会場と協議した結果、座席数を半数以下にするなど感染対策を万全にして行うという結論に至った。
「配信ライブもいいですが、お客さんの前で歌って思いを伝えることができない。音楽は基本的にアナログだと思う。ちなみに『学園天国』は有観客ライブではやりません。お客さんに『ヘ~イヘイヘイ』って歌わせたらいけないから。客席と一体になる曲なのに、声を出したらダメ、うなずいてるだけ…では盛り上がらない(笑)。キョンキョン(小泉今日子)ら、いろんな人が歌い継いでくれた幸せな曲だけど、コロナ禍の間は歌えないんです」
制約の中でやれることを模索しながら、晃は人生の節目である60歳のライブに向かう。