60年間も映画のポスターを作り続けると、裏方もスター俳優やカリスマ的なプロデューサー、監督らと身近に接する機会があるものだ。映画広告図案士のレジェンド・檜垣紀六さんは当サイトの取材に対し、映画業界の伝説的なエピソードを披露した。
檜垣さんの仕事を一冊にまとめた著書「映画広告図案士 檜垣紀六 洋画デザインの軌跡 ~題字・ポスター・チラシ・新聞広告 集成~」(スティングレイ発行、税抜9000円)には、「アラン・ドロンのゾロ」(1975年公開)のポスターも掲載されている。元フェンシング選手という日本人モデルの体にドロンの顔を合成し、衣装は宝塚歌劇から借りたという離れ業なのだが、檜垣さんはドロンのプライベートにも付き合ったという。
「ドロンは主演映画『友よ静かに死ね』(77年)の公開時に記者会見で来日。帝国ホテルから『ラジカセを買いに行きたい』ということで、有楽町駅近くのショッピングセンター横に秋葉原の電気店の支店があって通訳も含めて3人で買いに行った。でも通り過ぎる人が誰も振り向かない。ドロンとお茶飲んでる時に『誰も気が付かなかったね』と言ったら、『フランスの故郷には俺みたいなヤツはいっぱいいる』って(笑)。そりゃ、朝の9時半にアラン・ドロンが有楽町の通勤コースを歩いてるとは思わないよ」
高倉健さんとはポスターを手掛けた主演映画「駅」(81年)から交流があった。
「健さんとロバート・デ・ニ―ロ主演の『レイジング・ブル』(81年日本公開)の話になって『いいんだよ、あの人。自分で体重制限したり。俺もやってみたい。デ・ニ―ロみたいなポスターを作りたい』と。『夜叉』(85年)のポスターを作る時で、ちょうど撮影所の横にレンガ壁のあるセットがあったから『銃構えてみます?』ってことで、デ・ニ―ロのイメージでポスターを作った」
檜垣さんは日本映画界に旋風を巻き起こした角川映画のポスターも手掛け、角川春樹氏と共に仕事をした。
「角川書店が米国の映画雑誌『バラエティ』の日本語版の版権を取って、(82年2月の)火災で燃える前まで、ホテル・ニュージャパンの大広間を借りて編集していたんだけど、夜中にデザイナーや編集者がバテたら、春樹さんが『15分休憩』って、当時、赤坂のTBS前にできたばかりの吉野家にみんなを連れて行くんだ。そこでも牛丼を食べながら雑談。春樹さんは『自分が面白いと思う物を1つずつ挙げなさい』って、お題を出した。当時の編集長は『東京タワーの屋上の避雷針の平方面積は?』みたいなことを言うわけ。春樹さんに『六さんなんかないか?』って振られて、俺は『万里の長城をパチンコ屋にしたら何百万台並ぶでしょうか?』って答えたら、『お前、バカか』って言われた(笑)。あの人、そういう切り替えが面白い」
さらに、角川氏が一時〝行方不明〟になった時の裏話もある。
「有名な話だけど、春樹さんは角川神社を山梨県の富士山麓にある本栖湖(もとすこ)に持ってるの。角川映画『キャバレー』の宣伝会議に春樹さんが出て来ないことがあって、どうしたのかなと思ってたら、初日の舞台あいさつにタクシーでギリギリに会場に入ってきた。『どこ行ってたの』と聞いたら、春樹さんは『角川神社にお祈りしたら、西の湖に行って沐浴すると大ヒットするという予言があって』と言うんだ。『本栖湖に?』『いや、レマン湖に行ってた』『そんな所まで行ってたんですか!』って(笑)』
山梨どころか、スイスとフランスにまたがる湖にまで行ってしまうとは、スケールが違う。角川映画といえば、大ヒットした「犬神家の一族」(76年公開版)のポスターや新聞広告を担当したのが檜垣さん。そう、あの「足」が湖面から逆さまにニョキッと突き出ているインパクト大のデザインだ。
「当時、子どもたちの間で『犬神遊び』がはやったくらい話題になった。まだ、脚本ができていない段階でこのスチールを撮っていて、水中に入った人はかなり苦しい思いをしたらしいけど、何点かある中でこれが採用された。普通、ポスターには役者の顔を出すのに、春樹さんは『これでいくよ』と。新聞3大紙の広告では『死体を出しちゃいけない』ってことで『足』は少ししか入ってないバージョンになったけど、映画館などのポスターは足がメインになった。春樹さんプロデュースのおかげですよ」
「犬神遊び」。中学生だった記者もプールに潜って試みたことがあるが、鼻から水が大量に入って悶絶したことを思い出す。これもまた、昭和の「あるある伝説」の1つかもしれない。