弾道ミサイル発射、東京五輪不参加表明、新型潜水艦完成か?…。今春も北朝鮮の動きが度々報じられたが、こうした政治的な文脈の背景にある庶民の姿が報道される機会は少ない。一方で、北朝鮮のサブカルチャーに興味を持つ人たちも日本にはいる。現地でマンガ本を大量に購入してきたIT企業社員の大江・留・丈二(おーうぇるじょーじ)さんは当サイトの取材に対し、イチオシの作品として「世界プロレスリング王者、力道山」を挙げた。
大江さんは、「韓国いんちきマンガ読本」(パブリブ発行)という著書もある自称「パチモン・ハンター」。4、5年前、平壌で約100冊のマンガ本を購入したが、それ以前に力道山の自伝マンガを入手していた。
「10年以上前、中国の延吉にある北朝鮮自治区で見つけて購入しました。(4、5年前に)訪朝した時にもガイドの方に探してもらったのですが、全く見つからず、現地の市場に出回っていませんでした」。力道山の作品は1995年に中央科学技術通報社から刊行されたもの。平壌で買った100冊と比べても一番面白かったという。
ちなみに、力道山は韓国では「ヨクトサン」、北朝鮮では「リョクトサン」と読む。日本において街頭テレビの時代に国民的ヒーローとなったプロレス界の父ともいうべき存在だが、出生地である北朝鮮(当時は日本統治下)でもやはり英雄だった。大江さんに同作の背景を説明いただいた。
「マンガの元ネタは、北朝鮮で発行されている月刊誌『千里馬』に連載された『世界のプロレス王者 力道山』というエッセイで、その単行本化が『力道山伝説』として96年に朝鮮成年社より日本語訳が発売されています。いずれも、95年に平壌で開催されたプロレス・イベント『平和のための平壌国際文化・スポーツ祝典』(アントニオ猪木らが参加)に連動した企画と推測されます」
ツッコミどころもある。
大江さんは「力道山は『強制連行されて日本に連れて来られ、常に祖国に思いを馳せていた』という設定です。朝鮮から日本に拉致されて相撲部屋に入れられ、民族差別にあってプロレスに転じて世界チャンピオンになるという話ですけど、ルー・テーズら外国人レスラーの顔が全然似ていないなど笑える要素もあった。また、(大相撲時代に)力道山がオールバックのまま相撲を取っている描写がありました」と解説。また、力道山が63年12月8日に刺された東京・赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」が山の中にある建物として描かれている。大江さんは「確かに(マンガでは)山奥にありました」と証言する。
実際、北朝鮮における力道山とその家族はどのような存在であったのだろうか。
「力道山は、北朝鮮でも民族的英雄として非常に人気が高く、金日成主席も64年の東京オリンピックに北朝鮮選手団を送り込む際、力道山を称えるような教示を残しています。力道山の娘、金英淑は71年に『愛国烈士証』を授与され、娘婿の朴明哲は、朝鮮民主主義人民共和国オリンピック委員会委員長、内閣体育指導委員会委員長を務めた有力政治家です。金英淑自身も農業大臣を務めていました」
では、そもそも同作にひかれた理由とは。大江さんは「北朝鮮のマンガは児童向けの童話や教育マンガ、青少年向けの戦争英雄マンガやスパイ漫画が9割以上を占めているが、この力道山マンガだけが異色過ぎたため」と説明。北朝鮮という国については「旅行で訪問する分には、終日、添乗員による監視体制が取られているため、とても安心して観光や買い物ができました。ある意味、台湾やシンガポール以上に安全な旅行先だと思います」と振り返った。
帰国後、2019年9月に赤坂のギャラリーで、大江さんの個人所有物を提供した「北朝鮮マンガ展」を開催。北朝鮮の未知なる文化に関心を持つ人たちが訪れた。
大江さんは北朝鮮の観光客向け冊子も見せてくれた。「世界6大文明として、チグリス・ユーフラテス川やナイル川と並んで、大同江(テドンガン)が入っていました。また、朝鮮語で数の数え方や日常の挨拶などが日本語のカタカナ付きで並んでいるのですが、その一番最後が『偉大なる金日成主席、万歳(マンセー)!親愛なる金正日書記長、万歳!』だったり…。マンガより面白い」。その独特な世界観を適度な距離と好奇心を持って注視している。