通勤途中の駅でエスカレーターを利用するAさんは、いつものように右側を歩いて登っていた。ただ、近ごろは「エスカレーターでは立ち止まりましょう」という啓発ポスターがやけに目につくようになり、「急いでいる人もいるのに、なぜ一律に禁止するのか?」「歩くだけで罰金を取られたりするのか?」と疑問を抱いていた。
そんなある日、Aさんがエスカレーターで立ち止まっていると、隣を歩いていた人がバランスを崩しそうになり、ヒヤリとする場面に遭遇した。大事にならずに済んだが、エスカレーターを歩くという行動のリスクを体感した。このようなリスクが潜む行動について、法的責任はどのようになっているのか、まこと法律事務所の北村真一さんに話を聞いた。
ーエスカレーターでの歩行禁止には、法的拘束力や罰則はあるのでしょうか?
埼玉県(2021年施行)や名古屋市(2023年施行)などで、エスカレーターでの立ち止まりを義務付ける条例が施行されています。
これらの条例に「法的拘束力」はありますが、現時点では違反したからといって罰金や過料などの罰則は定められていません。
条例の主な目的は、あくまで利用者の意識を変え、安全な利用を促進することにあります。そのため、歩いているからといってその場ですぐに警察に連行されたり、罰金を科されたりすることはありません。
ー罰則がないのであれば、急いでいる時に歩いても個人の自由と言えるのでしょうか?
そう考えるのは危険です。罰則がないことと、法的責任を負わないことは別問題だからです。
エスカレーターは本来、立ち止まって乗ることを前提に設計されています。鉄道各社やメーカーも「歩行禁止」を明文化しています。そのため、エスカレーター上で歩いて誰かと接触し、転倒させてしまった場合、歩いていた側には「安全配慮義務違反」や「過失」が認められやすくなります。
ーもし接触事故を起こして相手に怪我をさせてしまった場合、損害賠償はどうなりますか?
民法上の「不法行為(709条)」に基づき、損害賠償責任を負うことになります。
治療費、通院交通費、慰謝料、さらには仕事に支障が出た場合の休業損害などが請求対象となります。特に高齢者や障害のある方を転倒させ、重い後遺障害が残った場合、賠償額が数千万円単位にのぼるケースも珍しくありません。また、相手が「止まっていた」のに対し、自分が「歩いていた」のであれば、過失割合は歩いていた側に重くつくでしょう。
ー過失による事故であっても、「刑事罰」に問われる可能性はありますか?
可能性はあります。相手に怪我をさせた場合は「過失傷害罪」、最悪の場合、相手が亡くなれば「過失致死罪」に問われる可能性があります。
さらに、スマートフォンの操作をしながら歩いていた、あるいは混雑の中で無理に追い越そうとしたなど、注意義務に著しく反していたとみなされれば、より刑の重い「重過失致死傷罪」が適用される可能性も否定できません。
したがって、目的地に数秒早く着くことよりも、周囲への安全を優先して「左右両側に立ち止まる」ことこそが、リスクを回避し、現代社会においてスマートな大人の振る舞いといえるのではないでしょうか。
●北村真一(きたむら・しんいち) 弁護士
大阪府茨木市出身の人気ゆるふわ弁護士。「きたべん」の愛称で親しまれており、恋愛問題からM&Aまで幅広く相談対応が可能。