中堅社員のAさん(30代男性)は、上司との折り合いの悪さに悩んでいた。普段からAさんに対して横暴な態度をしてくるだけでなく、最近では仕事の指示もまったく出してくれない始末。そんな状態が2カ月続いた結果、Aさんは我慢の限界に達して「今日で辞めます。明日からは来ません」とメールを残して会社を去った。
その後、会社からは何度も電話がかかってきたけれど、彼はそれにまったく対応をしなかった。携帯電話に残された会社からの留守番電話メッセージを聞いてみると、どうやらAさんにしかわからないプロジェクトの進捗や、重要データの保存場所について教えてほしいようだ。これに対してAさんは「こっちが助けてほしい時に何もしてくれなかったクセに!」と怒りを覚え、無視を続けた。
その結果、翌日に予定されていた重要な商談が情報不足で決裂し、会社は数百万円の損失を被ることとなった。社長は激怒し、Aさんを訴えると息まいている。果たしてAさんは法的に裁かれてしまうのだろうか。まこと法律事務所の北村真一さんに話を聞いた。
ー労働者には「引継ぎをする義務」が法的にあるのですか?
労働者には「信義則上の義務(民法第1条第2項)」の一環として、退職に際して適切な引継ぎを行う義務があると解釈されるのが一般的でしょう。
労働契約を結んでいる以上、労働者は会社に対して誠実に業務を遂行する義務を負っています。引継ぎを全く行わずに辞めることは、この信義則上の義務に反する行為とみなされかねません。
この男性のように、自分にしかわからない情報を意図的に隠蔽して会社に損害を与えた場合、「退職の自由」の範疇を超えていると判断される可能性は否定できません。
ー「2週間前に申し出れば辞められる」というルールと、引継ぎ義務の関係はどうなっていますか?
民法第627条では、期間の定めのない雇用契約の場合、やむを得ない事由を除き、退職を申し出てから2週間が経過すれば契約が終了すると定められています。
しかし、これは「今日言って、今日辞めてよい」という意味ではありません。この2週間の猶予期間は、会社側が後任を探したり、引継ぎを行わせたりするための期間でもあります。メール一通で翌日から来なくなる即日退職は、会社側の合意がない限り、厳密には契約違反(債務不履行)にあたります。
ー会社による「損害賠償請求」は実際に認められるのでしょうか?
認められるケースは非常に稀だと考えます。
会社側が勝訴するためには、「引継ぎがなかったこと」と損失の間に直接的な因果関係があることを証明しなければなりません。
裁判所は「労働者が辞めることによるリスク管理は、本来会社が行うべきもの」と考える傾向があるため、会社側にも管理責任があったとして、賠償額は制限されるのが通例です。
ただし、今回のように「重要な商談を翌日に控えていると知りながら、嫌がらせ目的で意図的に情報を遮断した」といった悪質性が認められる場合は、一定の賠償命令が下される可能性も否定できません。
ー会社が「引継ぎをしないなら退職金や給料を払わない」とすることは違法ですか?
労働基準法には「賃金全額払いの原則」があり、引継ぎの有無や損害の発生にかかわらず、既に従事した労働に対する対価は全額支払わなければなりません。損害賠償は、給料から勝手に差し引くのではなく、別途請求すべきものだからです。
一方で「退職金」については、就業規則に「著しい背信行為があった場合は不支給・減額とする」といった規定があれば、引継ぎを全くせず損害を与えたことを理由に、一部減額などが認められる余地はあります。ただし、これも全額不支給とするには、相当に重い背信性が必要となります。
●北村真一(きたむら・しんいち) 弁護士
大阪府茨木市出身の人気ゆるふわ弁護士。「きたべん」の愛称で親しまれており、恋愛問題からM&Aまで幅広く相談対応が可能。