大河『家康』年齢差50 豊臣秀頼との二条城会見の本当の意義 「礼」が重要ポイントに 識者が解説

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(FACTORIE/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「どうする家康」第45話は「二人のプリンス」。徳川家康(松本潤)と豊臣秀頼(作間龍斗)が二条城で会見する様が描かれました。慶長16年(1612)3月17日、家康は入京します。家康が久しぶりに都に赴いたのは、3月27日に、後陽成天皇の譲位(4月12日、御水尾天皇の即位)が行われるということもあるが、その翌日(3月28日)に、豊臣秀頼と二条城で会見するためでもありました。

 秀頼が都に身を置くには、慶長4年(1599)1月に、父・秀吉の遺言に基づき、伏見から大坂に移住して以来のことでした。会見の日、家康は息子の徳川義直(家康9男。1601年生)と頼宣(家康10男。1602年生)を鳥羽に派遣しています。秀頼の迎えにやらせたのです。

 一方、秀頼のお供は、織田有楽(信長の弟)、片桐且元・片桐貞隆(且元の弟)、大野治長、その他、番頭衆・小姓衆ら30人という少人数でした。大坂からやって来る秀頼を、家康は庭に出て、迎えたといいます。秀頼、この時、19歳。家康は、69歳でした。秀頼は家康の出迎えに、丁寧に礼を述べたそうです。家康は先に御殿に入り、秀頼を庭から御殿に上げて、秀頼の方を「御成之間」に先ず、入れようとします。

 その後、家康が「御成之間」に入り「御礼」(対等に礼をする)をと提案したのです。しかし、年若い秀頼は、それに恐縮したのでしょう。家康を先ず、「御成之間」に進めて、礼が行われたのです。会見で豪華・美麗な料理を提供することもできたが、あえてそれはしませんでした。かえって打ち解けないと考えられたからです。

 よって、料理は吸い物が出ただけだったのです。「三献の祝」も行われ、先ず、家康の盃が秀頼へ。続いて、秀頼の盃が家康に回されました。その際、お互いに贈り物をしています。家康から秀頼には、太刀・脇差・鷹・馬が進呈されました。

 秀頼からは、刀剣・脇差・金子などが家康に進上されたのです。ちなみに、会見には、亡き秀吉の正室・北政所(寧々)も参加していました。両者の会見は無事に終了。二条城を出た秀頼は、建築中の方広寺大仏殿と豊国社(祭神は豊臣秀吉)を訪れて、その日のうちに大坂に戻っていきました。

 家康と秀頼の対面は、秀頼が大坂城を出て、家康がいる二条城にやって来て「礼」をしたことが注目されます。つまり、豊臣家が徳川家に「臣下の礼」をとったというのです。その事を明確にする「儀式」こそ、二条城での対面だったと言われています。

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