大河『家康』徳川家康暗殺計画は本当にあったのか?前田利長ら排除のための捏造説 識者語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(clam/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「どうする家康」第41話は「逆襲の三成」。徳川家康(松本潤)を暗殺しようとする様が描かれました。慶長4年(1599)閏3月、石田三成は、七将による「三成邸襲撃事件」を受けて、佐和山(滋賀県彦根市)に引退します。一方、徳川家康は伏見城西の丸に入り「天下殿」と称されたりもしました。同年8月、上杉景勝・前田利家などの有力大名が相次いで帰国します。

 そして9月、家康は、重陽の節句(9月9日。陽数の9を重ねためでたい日。中国を起源とする。日本では平安時代に宮中の年中行事として菊の宴が催された。菊の節供とも言う)の祝いを秀吉の後継者である豊臣秀頼に述べるため、伏見から大坂に向かいます。この時、家康は空(から)となっていた三成邸に宿泊します。その際、秀吉に仕え、五奉行の1人となった増田長盛らが驚くべき情報を家康に伝達したとされます。

 それは、浅野長政が主導して、家康を亡き者にする計画が進行しているというのです(刺客は大野治長や土方雄久など)。家康が大坂に登城した時に、家康を殺害する計画の存在。

 この「家康暗殺計画」の首謀者は、前田利長(利家の嫡男。加賀藩初代藩主)で、それに浅野長政や大野治長・土方雄久が加担したと言われてきました。しかし、近年では、家康暗殺計画など本当はなかったのではないかと言われています。つまり、捏造されたものだというのです。では、何のために?前田利長らを排除するために捏造されたと言われています。

 『徳川実紀』(徳川幕府が編纂された徳川家の歴史書)には、前田利長と浅野長政は実は徳川家に親しみを抱いており、それを見た石田三成や増田長盛・長束正家などが両者の間を裂こうとして、今回の事を謀ったと記されています。家康暗殺計画があるということを理由として、徳川方は警備の厳重化をはかるため伏見から軍勢を派遣しています。9月9日、家康は大坂にて、秀頼に面会しています。騒動などはありませんでした。

 しかし、大野治長は「罪」を問われて、下総に流され、土方雄久は常陸の佐竹氏に預けられたのです。浅野長政は領国(甲斐国)に蟄居となります。家康が前田利長を征伐するのではとの噂もありましたが、芳春院(まつ。利長の母)が人質として江戸に下ることになり、和解が成立。浅野長政の排除、前田利長の屈服により、秀吉が創り上げていた「五大老・五奉行」制は瞬く間に崩壊しました。そして、家康が大坂に入り秀頼を支えるという体制が成立するのです。家康の一人勝ち状態と言えましょう。

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