大河『家康』秀吉、朝鮮出兵の謎 欧州の「明国征服」を予想した説も 妖艶な茶々も登場 識者語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(reehand/)
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 NHK大河ドラマ「どうする家康」の第38話は「唐入り」。小田原北条氏を打倒し、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉(ムロツヨシ)が、朝鮮への進攻を開始した様が描かれました。天正20年(1592)、豊臣秀吉は、いよいよ朝鮮出兵を開始します(12月に文禄に改元。文禄の役)。秀吉は、肥前名護屋(佐賀県唐津市)に築城させ、そこを朝鮮侵攻の本営としました。

 「朝鮮出兵」とよく言われますが、秀吉は朝鮮のみならず、明国(中国)をも征服する構想を抱いています(唐入り)。明国征服の暁には、後陽成天皇を北京(明国の首都)に移し、豊臣秀次(秀吉の甥で養子)をその関白とする。日本においては、後陽成天皇の皇子が天皇となり、関白は、秀次の弟(秀保)か宇喜多秀家(正室は秀吉の養女・豪姫)とする。朝鮮には、秀勝(秀次の弟)か宇喜多秀家を充てる。秀吉の構想は、このような遠大なものだったのです。

 秀吉の「唐入り」の野望は、天正14年(1586)頃から見られるとされますが、なぜ、秀吉は現代の歴史家からも「机上の空論」と批判されるような「暴挙」に及んだのでしょうか。

 秀吉の愛子(鶴松。母は淀殿)が幼くして亡くなったこと(1591年)が影響を与えたとする説。自分の名を海外にも現したいという功名心説などもあります。

 また、当時、スペインやポルトガルなどは「明国征服」を考えていました。ポルトガルなどに先に明国を征服されたら、次に狙われるのは日本。よって、その前に行動を起こして、日本が明国を獲るという思いも秀吉にあったのではとの見解もあります。朝鮮に侵攻した「日本軍」は、同年5月には、首都・漢城を陥落させます。快進撃を続ける日本軍。しかし、朝鮮の義兵の挙兵や、明国からの援軍が、次第に日本軍を劣勢に立たせることになります。秀吉は朝鮮への渡海を考えていたようですが、家康や前田利家は「それは危険」だとして、諫言。秀吉はついに朝鮮に自ら渡ることはありませんでした。

 さて今回は、北川景子さん演じる妖艶な茶々(淀殿)が家康(松本潤)に言い寄る場面が描かれていました。茶々は、天正17年(1589)に鶴松を生みますが、天正19年(1591)に亡くしていました。しかし、その2年後(1593年)に拾(後の豊臣秀頼)を生むことになります。それは、文禄の役が始まった翌年のことでした。

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