大河『家康』岡崎クーデター失敗 大岡弥四郎は何者か? 評価は二分も勝頼率いる武田軍は強かった 識者語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(Villain.In.Glasses/stock.adobe.com)
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 NHK大河ドラマ「どうする家康」第20話は「岡崎クーデター」。同回では、徳川家臣の大岡弥四郎が、松平信康(徳川家康の子)と瀬名(家康の妻)を討ち、岡崎を奪う計画を立てるも露見。捕らわれて、計画は失敗する様が描かれていました。では、この大岡弥四郎とは何者なのでしょうか?そして、彼はなぜ謀反しようとしたのでしょうか。

 まず、大岡弥四郎ですが、かつては書物などで「大賀弥四郎」と記載されていました。しかし近年では「大岡」姓であるとして、大岡弥四郎と記されることが増えてきました。「どうする家康」HPにも「大岡弥四郎」と表記されています。『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)によると、弥四郎は、家康の中間(侍の下、小者の上に位置した)として仕えていたが、ある時、三河国奥郡(二十余郷)の代官に抜擢されたといいます。そうしたこともあって、弥四郎の生活はかなり豊かになったようです。

 ところが、弥四郎は謀反を企て、主君を討ち取り、岡崎城を我が物にせんとしようとした。それはなぜか?同書は「余りの栄華に奢ったか」と推測するだけで、具体的な謀反理由は記していません。

 弥四郎は、小谷甚左衛門尉・倉地平左衛門尉・山田八蔵を同志として、城乗っ取りの計画を立てたようです。その上で、甲斐の武田勝頼(信玄の後継者)に「是非とも、岡崎にお引き入れしたい」という書状を送ったとのこと。

 家康の供をして、まず、弥四郎らが岡崎城に侵入し、信康を殺し、城を奪う(武田氏にも出兵してもらう)。そうすれば、兵は皆、家康に背き、勝頼に付くことでしょうとの構想を弥四郎は持っていたようです。しかし、弥四郎の同志であった山田八蔵は計画に不安を抱き、謀反計画を家康に告げてしまいます。これにより、弥四郎の陰謀は露見したのです。

 そうとは知らない弥四郎は、謀反に反対する妻に「お前をこの城に移し、御台と呼ばれる立場にしたいのだ」と得々と語っていました(『三河物語』)。だが、程なく、弥四郎は捕縛され、倉地は斬殺、小谷は甲斐に逃亡しました。こうして「岡崎クーデター」は失敗に終わったのでした。

 さて、信玄の後継者・武田勝頼は、長篠合戦の敗戦などもあり、愚将・敗将のイメージも強いですが、織田信長は油断ならぬ強敵と勝頼の事を見做していました(上杉謙信宛書状)。美濃や三河国の諸城を武田軍が次々と攻略した事が理由と思われますが、勝頼率いる武田軍は実際に強かったのです。

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