NHK大河ドラマ「べらぼう」第2回は「吉原細見 嗚呼御江戸」。今回は、蔦屋重三郎(横浜流星)が平賀源内(安田顕)に「吉原細見」の序文を書いて貰おうと奔走する姿が描かれていました。重三郎は源内を吉原に案内し、接待する事で吉原の良い所を書いて貰おうと努めたのでした。
さて、安永2年(1773)、蔦屋重三郎(1750〜1797)は新吉原大門口五十間道に書店を構えることになります。その名は「書肆耕書堂」。重三郎の初期の仕事は「吉原細見」の小売です。「吉原細見」とは、遊女屋とそこに属する遊女、揚げ代金(遊女や芸者を呼んで遊ぶ時の代金)などが掲載された「吉原総合情報誌」のことです。
貞享年間(1684〜1688)頃に刊行され、以降、「吉原細見」を刊行する版元は増えていきました。元文3年(1738)からは鱗形屋と山本という版元が春秋の2回ずつ刊行するようになっていましたが、宝暦9年(1759)からは鱗形屋が単独で刊行することになります。鱗形屋は「江戸の出版界でも代表的な老舗」であり、万治年間(1658〜1661)に開業しました。鱗形屋は黄表紙(黄色い表紙の絵本)や評判記、「吉原細見」など様々な書物を出版したことから「江戸版元のサラブレッド」とも評されています。
重三郎はどのような事情や経緯があったかは不明だが、この老舗大手版元の鱗形屋(孫兵衛)と接点を持ち、「吉原細見」の小売店を開くに至るのです。蔦屋重三郎は「物事を成し遂げようとする意気込みや才知に優れており、細々したことは気にせず、人に接する時は信義を重んじる」(江戸時代中期の戯作者・石川雅望による墓碑銘)と評されているので、持ち前の上昇志向や才知・人格によってそこまで到達したと推測されます。
安永3年(1774)刊行の鱗形屋孫兵衛版の吉原細見『細見嗚呼御江戸』に「小売取次仕候(中略)蔦屋重三郎」と重三郎の名を見出すことができます。これが重三郎の名を確認できる最初の史料と言われます。『細見嗚呼御江戸』の序文を書いたのが「福内鬼外」とのペンネームを持つ平賀源内(1728〜1779)でした。源内は本草学者・事業家・戯作者・俳人など様々な顔を持つ人物。「エレキテル」(静電気発生機)の修理・復元そして一般公開で話題を集めたように「江戸っ子」が注視する人物でした。
その平賀源内に序文を書かせたら話題を集め「吉原細見」が売れるのではないか。そのような考えから、源内が起用されたのでしょう。源内が起用されたのは、重三郎の発案と推測されていますが、そうだとすれば重三郎の「商才」を窺うことができるでしょう。
◇主要参考・引用文献一覧 ・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)・櫻庭由紀子『蔦屋重三郎と粋な男たち!』(内外出版社、2024)