NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が、いよいよ18日に最終回を迎えます。主人公・北条義時(小栗旬)の長い旅路も終わりを迎えようとしているのです。
義時は伊豆国の小豪族・北条時政の次男として1163年に生まれました。普通ならば、小豪族の次男坊として、波瀾のない人生を送れていたでしょう。が、彼の人生は、姉の北条政子が伊豆に流罪となっていた源頼朝と結ばれたことにより、波瀾万丈なものとなるのです。
1180年8月、頼朝は平家方に対し、挙兵。時政・義時親子もそれにつき従います。石橋山合戦で平家方に敗れるという危機もありましたが、頼朝らは何とか死地をくぐり抜け、房総の豪族たちを味方につけ、鎌倉へと入ります。翌年(1181)4月、義時は頼朝の寝所を警護する役割を与えられ、1182年には「亀の前事件」に際し、父・時政と行動を共にせず鎌倉にいたことを頼朝から称賛されるのでした。平家方を追討するため、源範頼(頼朝の異母弟)軍に属し、九州にまで赴いたこともありました。義時が敵首を取ったなどの武勇を見せることはありませんでしたが、平家滅亡後も、頼朝側近として重用されています。
頼朝の急死(1199年)もまた義時の運命を変えたと言えましょう。頼朝の後継者・源頼家を支える有力宿老13人の1人に義時はなったからです。ところが、頼朝死後の鎌倉は、ドラマでも描かれていたように、有力御家人同士の内紛に次ぐ内紛。梶原景時・比企能員・畠山重忠・和田義盛といった幕府創業の功臣たちが、時に北条氏の陰謀により、粛清されていきました。
その間には、源頼家の追放と謀殺、三代将軍・源実朝を廃そうとする父・時政の追放、実朝暗殺という更なる「悲劇」もありました。凄まじい権力闘争を経て、義時も鍛えられていったはずです。政所と侍所の別当(長官)を兼ねて、幕府の実力者となった義時。ついには、義時を追討しようとした後鳥羽上皇方の軍勢を撃破し(1221年、承久の乱)、戦後には上皇を配流とするのです。
承久の乱の勝利により、幕府の勢力範囲は一段と拡大します。義時は頼朝が創り上げた幕府を更に強固なものにしたのです。義時がここまでのし上がることができたのも、元を辿れば、頼朝の妻・北条政子の弟だったからでしょう。
「鎌倉殿の13人」の脚本を担当する三谷幸喜さんは随筆の中で「このドラマは結局は家族の話なんだと」(三谷幸喜「僕が描きたかったこと」『文藝春秋』2023年1月号)と述べています。至言というべきですが「家族の話」はどのような結末となるのでしょうか?