日活ロマンポルノ50周年 切通理作氏が時代と作品を振り返る 

切通 理作 切通 理作

バブルの裏面に目を向けた末期の傑作

  ロマンポルノを映画として語る時、その要素が外せないこともあって、やがてポルノとしてのルーティーン化とともに社会の表面も安定し、明るく楽しいものが是とされる風潮で覆われるようになる後期の作品や、また独立プロダクションからの買い取り作品などは本筋から外れているとみなされたのか、ロマンポルノ全体を振り返る特集上映では除外されがちだった。

  だが50周年の特集上映では、ロマンポルノを愛する世代を超えた人たちのリスペクトの声が反映されていることもあって、多様な作品がラインナップに並んでいる。

 特に嬉しかったのが、末期の作品で、斎藤水丸監督による『母娘監禁・牝』(87)の上映だ。この作品はアイドルの岡田有希子が自殺したとき、少女たちの「後追い自殺」が続いたことを意識して作られた。

  デパートの屋上で落ち合うことを約束していた友人が目の前で投身自殺した女子高生のチヅル。自分も死のうとするが思い切ることが出来ず、かといってそれまでの日常に意識を戻すことも出来ないまま、置手紙を置いて家出する。

  小劇場演劇で頭角を現していた前川麻子が、少女チヅルのよるべない心情を瘦身の肉体で軋むように演じている。

  チヅルはテレクラで出会った中年男とそのまま暮らすことになるが、男はやがて彼女やその友人まで巻き込ませて売春をやらせるようになる。今は亡き名優・加藤善博演じるこの男の存在感がまた際立っている。やくざや筋金入りのワルというより、行き当たりばったりに生きている無職者であり、そんな人間にもつるんでいる街の仲間がいて、その「底辺で安定している」感覚が、映画の中の事なのにリアリティがあり、まるで地方都市の周縁に巣食う空白そのものを体現しているかのようだ。

  ひとたび日常の外側にある陥穽にハマり込んでしまうと、抜けられない地獄観が、バブルの崩壊を迎えた地方都市の荒涼とした風景とともに描かれる。

  水戸駅前でロケされた、地域振興の明るいスローガンが掲げられた傍らで、車を乗りつけ、テレクラの待ち合わせをする場面は象徴的だ。また、チヅルの父親が国鉄民営化反対闘争のあおりを受けて、毎日勤務先で「塗り絵」ばかりやらされて無気力化しているのだが、家では「うるさい!女は黙ってろ」と、なんの威厳もない空疎な粋がりの言葉を、妻に向けてオウムのように繰り返すくだりは、まさに地獄の石積みだ。

  この妻が後半では自らの肉体を差し出して、売春させられている娘チヅルを救おうとするのだが、娘の前で、中年のすえた匂いを発散させる肉付きの良すぎる母親を抱かなければならないということが、外ならぬそれを言い出した男たちにとっても、まるで義務のような「嫌々やってる感」が漂い、それでもやめることは出来ず、仲間同士バトンタッチして行為を続けるしかない。

  映画の観客をも、まさに生き地獄の時間に立ち会わせているような……つまり、観ていてちっともエロくもならなければ気持ちよくもならない映画なのである。

  自分を助けてくれたはずの母の「ある瞬間」を目の当たりにして衝動的に駆け出すチヅルだが、それでも自殺することは出来ない。

 後日、砂浜を一人歩くチヅルが、風邪をひいたのか「コホン」と咳をする。この咳払いが、彼女自身の生きている確認の萌芽なのか、一緒に映し出される青空とともに、不思議と突き抜けた気分に、観ている私も包まれたものだが、そこにユーミンの「ひこうき雲」が流れるのだ。

 「ひこうき雲」はのちに宮崎駿の『風立ちぬ』でもエンディング主題歌として使用されるが、元々は自殺した少年の実話をヒントに作られた楽曲であるといわれる。ユーミンその人ではなく映画用にカバーされた歌声になっているのは、さすがにポルノでの使用が憚られたのかもしれない。

  実はこの映画と同年、ユーミンの楽曲を主題歌として使い、大ヒットした作品がある。『私をスキーに連れてって』だ。

 まさにバブルの「陽」の部分の象徴のような、スキーに明け暮れる若者たちのキラキラした青春が描かれる一方、そのバブルが崩壊し、現代に続く足元の崩壊した中での荒涼とした現実が始まる兆しに早くも目を向けた作品がロマンポルノから登場したことは、語り継いでおきたいポイントだ。

 ロマンポルノはこうして終わった

  ロマンポルノについて語るとつい文字数が多くなってしまうが、最後にこの作品についてだけは、駆け足でも語っておきたい。

  ロマンポルノが終わる時のラストショー作品のひとつで、後藤大輔監督のデビュー作『ベッド・パートナー BED PARTNER』(88)だ。 

 男女雇用機会均等法の2年後という時代に合わせたのか、本作ではキャリアウーマンのヒロインが、買春で男を買う側になっているが、実生活では億手で恋愛経験がない。この二重に屈折したヒロインが、あるダンパに誘われ陰キャのまま片隅に参加し気乗りでない気分でいたとき、そこで参加者みんなが唱和し歌って踊る明るく楽しい「可愛いゝひとよ」の楽曲。それはまさに同時代のむなしい喧噪そのもののようにみえた。

  だがクライマックス、自分がこれと決めた男性の元に駆けつけるため彼女が街を失踪する時、その同じ歌が山瀬まみのカバーバージョンで流れる。それは、こんな虚飾の時代でもなりふり構わず思いのままに走る彼女への応援歌のようにも、彼女自身の中から響かせた歌のようにも聞こえるのだ。

  そして、彼女の走る先に居るはずの男が、映画の中ではまったく生身の魅力を感じさせない、記号的な存在に描かれているのも象徴的だ。目的ではなく、あくまで無心に「走る」彼女の姿それ自体の肯定なのだ。

  そしてこれが、バブル期にロマンポルノそのものが終わる時、でもそれでも、これからも、時代に抗う身一つの人間たちの生きる力は止まることはないんだよ、という作り手の叫びのように、私には思えた。

  70年代初期の傑作もさることながら、バブルの虚飾と喧噪の中「世の中、こんなに薄っぺらいだけであるはずないだろ!」という思いに居場所を与えてくれた時期のロマンポルノも、またかけがえのない時代の記録なのだ。

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