手塚治虫の実験アニメーション「ジャンピング」に込めた日本アニメへの贖罪と提言 映画監督が語る

沼田 浩一 沼田 浩一
火の鳥のモニュメントが出むかえる手塚治虫記念館=宝塚市武庫川町
火の鳥のモニュメントが出むかえる手塚治虫記念館=宝塚市武庫川町

 手塚治虫が数多くのマンガやアニメーション作品を残してきたことは今さら言うまでもないが、「実験アニメーション」「アートアニメーション」も手掛けてきたことはあまり知られていないのではないだろうか。

 実験アニメやアートアニメはその名の通り、実験的な手法での制作、またはアート性を重視したアニメのことである。油彩や影絵、砂地に描いた絵を動かす作品、人形や粘土などの物体をコマ撮りする作品、また演出そのものが特異なアイデアを用いる作品などがある。テレビや映画館で気軽にお目にかかれるものとは言い難いジャンルである。

 手塚が実験アニメに挑んだ最初の作品は「ある街角の物語」(1962年)である。ディズニー調のネズミや絵本のようなタッチで描かれた女の子による冒頭シーンは普通のアニメに見えるが、街角に貼られたポスターを使ったやりとりなど実験的な演出が加わり、やがて戦争を描くシリアスな展開となって悲劇的なラストを迎える。わずか39分の中編ながら、アニメ表現の可能性を追求。ここから手塚治虫の実験アニメへの挑戦が始まった。

 しかし、同時期に実験アニメとは真逆の「鉄腕アトム」の制作も開始した。日本初となるテレビアニメは1963年に放送を開始すると高視聴率とキャラクターグッズ人気により大ヒットしたのだが、極端に少ない作画枚数や映像の使い回しによる低予算での制作実現は、後続するアニメの粗製乱造を招いた。

 手塚は世界に通用するアニメ作家が日本から生まれることを理想としたのだが「鉄腕アトム」によって商業性ばかりが強調されてしまった。「手塚治虫実験アニメーション作品集(発売:パイオニアLDC)」収録のインタビューで「日本のアニメは意図に反して違う方向へ行ってしまった。実験アニメが出てこず、オリジナリティもなかった」と語っている。その歯がゆさゆえか、立て続けに「人魚」(1964年)、「しずく」(1965年)、「展覧会の絵」(1966年)などの実験アニメを作った。

 「創世記」(1968年)以降、実験アニメから遠ざかったのだが、熱を失ったわけではなかった。「日本のアニメはもっと海外に出なきゃならない。他にやらないなら俺がやる」という思いで制作したのが「ジャンピング」(1984年)である。主人公の視点による映像がワンカットで描かれた。主人公が歩行中にジャンプを始め、それが次第に大きくなり、田舎から森、町、さらには海を越えて原爆投下のキノコ雲の中へ…という内容だ。1コマずつ変化を続けるワンカットの映像作品を、2年半ほどかけて制作した。

 「ジャンピング」はザグレブ国際アニメーション映画祭グランプリとユネスコ賞、バリャドリド国際映画祭銀穂賞などの海外映画祭で受賞した。文字通り「ジャンピング」は海外へ飛び出したのである。この受賞に刺激を受けて斬新なアニメが日本から生まれることを手塚は期待したに違いない。「ジャンピング」には「鉄腕アトム」によって閉鎖的となった日本アニメ界への贖罪と提言が込められているように思うのは筆者だけだろうか。

 手塚は残念ながら1989年に死去したが、その前年に完成した「AKIRA」(原作監督・大友克洋)によって海外の目は日本アニメに向けられ「ジャパニメーション」という言葉も生まれた。手塚がもう少し長生きしたのならば、「ジャパニメーション」をどのように評したのか?非常に気になるところである。

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