「高木ブー的な生き方」第5の男が体現する「役割と居場所」 舞台で志ん生ばりの居眠りに喝采

北村 泰介 北村 泰介

 今年3月に米寿を迎えたザ・ドリフターズの高木ブーが30年間に渡ってメンバーの姿を描きためた絵を収めた「高木ブー画集 ドリフターズとともに」(ワニ・プラス)の発売記念イベントを都内で行い、トークに続いてウクレレ演奏と歌も披露した。ネット媒体で約2年間、高木を取材した連載を執筆し、同書のインタビューで聞き手を務めたコラムニストの石原壮一郎氏に「高木ブー的な生き方」について聞いた。

 TBS系バラエティー番組「8時だョ!全員集合」の放送が始まった1969年10月に小学1年生だった石原氏。幼い頃からテレビのブラウン管で躍動していたドリフターズを知る世代だ。同氏は「子どもの時に大好きだった人に大人になって仕事を通して会うことになってドキドキしますね。やっぱり素敵な人だったと思うことばかりで。50年前の子どもだった自分が見る目は間違いではなかったと。巡り巡って接点があったのは奇跡的なことでうれしいですね」と感慨に浸る。

 イベントの冒頭、高木は演者側から見て左側の椅子に座ろうとしたが、本人に用意された席は逆の中央寄りだった。「ドリフの時は僕の左側に人いなかったんだもん」。自分はセンターではない。5人組のドリフターズにおいて、2003年に出版した著書のタイトルでもある「第5の男」を今も自認する。

 石原氏は「コントで長さん(いかりや長介さん)に怒られたり、加藤茶さんや志村けんさんにいじられていた、そのまんまの人です。自分は損な役回りとは一切思ってないことがすごいし、その役割でいいバランスが取れていた。加藤さんや志村さんみたいな中心になって前に出る役割の人はもちろん必要だけど、そういう人をいかすには、そこを支える第4、第5の男が必要だと本にも書かれていましたけど、それはどんな組織や家庭でも言えることだと思います」と指摘する。

 トークの中で、高木は「魔の木曜日」というフレーズを使った。毎週土曜夜8時放送の「8時だョ!全員集合」に向けたネタ作りが行われる過酷な日が毎週木曜日だったからだ。

 高木は「午後から夜中の12時頃までセリフ回しから何から全部きっちりやってネタを作らないといけない。裏番組のコント55号はリハーサルを20分くらいやったら、さっと帰って、あとは本番でアドリブですよ。そんなことはドリフターズにはできなくて、ちゃんとした台本を作って、稽古して、大変だったんですよ。魔の木曜日です」と振り返りつつ、「僕は寝てましたけどね」というオチで爆笑を誘った。だが、その約30分後、ファンへの画集のお渡し会の残り数人というところで、実際に舞台上で寝てしまうというリアルなオチが付いた。

 会場に残っていたファンは88歳のレジェンドを温かく見守った。むしろ、ハプニングに立ち会えた喜びを分かち合う空間だった。寄席の高座で居眠りして客から喝采を浴びたという昭和の大名人、落語家の五代目古今亭志ん生の伝説を思い出した。志ん生といえば、高木がコント55号(萩本欽一、坂上二郎)と共に「ドリフ以外ですごいと思う芸人」として挙げた、ビートたけしが19年のNHK大河ドラマ「いだてん」で演じていた。

 イベントの進行を務めた石原氏に、取材中にも高木が寝たことがあるかを問うと、「たまにありますね。きょうはお疲れかな?みたいな」と明かす。そして、同氏は「自分の役割や居場所をどう見つけるか、それが毎日の心地よさや幸せになるんだということを、ブーさんは私たちに体現して教えてくださっているように思いますね」と語った。

 高木はトークの中で「痛い思い出」も振り返った。木曜にネタを作り、本番前日の金曜日は立ちげいことなるが、放送終了前年である84年、高木はこの金曜リハーサルでトランポリンに上ろうとした際にアキレス腱断裂の重傷を負い、1カ月半入院。「足首をバットで思い切り殴られたみたいな感覚」だったという。「その時に、ドリフをどうしようかと思うこともあって長さんと話をしました」。そこで辞めることなく、人生をドリフ一筋で歩んでいる。

 その、いかりやさんの著書「だめだこりゃ」(新潮文庫)を本棚から取り出し、「高木ブー」という章を開いてみた。冒頭の一文は「ブーちゃんといえば、『居眠り』である」。話がつながった。

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