大河ドラマ「べらぼう」第41回は「歌麿筆美人大首絵」。吉原遊廓は公認の遊廓として怖い者なしのイメージがありますが、当初はそうではありませんでした。私娼の湯女(風呂屋女)が吉原の強力なライバルだったのです。寛永年間に三浦浄心によって記された『見聞集』(別名・慶長見聞集)には町ごとに「風呂」屋があったとのこと。その風呂屋には鐚銭15銭・20銭ほどで入ることができました。風呂屋には艶かしい「湯女」が20人あるいは30人はいて、彼女たちは客の垢をかき、髪をそいだのです。
風呂は朝から沸かされました。湯女らは昼の間は客の垢をかいていましたが、それが終わると身支度をします。身支度をした湯女たちは夕暮れともなると、三味線を鳴らし小歌のようなものを歌って集客したのです。湯女は客の垢をかくばかりでなく、売春も行っていたのです。湯女(遊女)を抱え置いた風呂屋は「昼夜の商売」をし繁盛します。湯女風呂の代表的なものは「丹前風呂」と呼ばれるものです。「丹前風呂」とは堀丹後守の屋敷(現在の神田)の前にあったことから「丹前」と呼ばれるようになった風呂屋群のこと。丹前風呂には「美麗なる湯女」もいて人気を得たのです。
風呂屋は吉原と比べて安価であったということも人気の理由の一つでしょう。江戸の人口増加も私娼が跋扈した理由であり、当初は徳川幕府もその全面禁止には踏み切れませんでした。風呂屋1軒につき湯女は3人置いて良いとされたのです。幕府は風呂屋に対する禁令を度々発していることから見て、吉原を擁護はしていました。江戸時代初期の風呂屋の繁盛により吉原は衰微したとされますが、吉原贔屓の者は湯女(風呂屋女)に「猿」とのあだ名を付けたとのこと。湯女は垢をかくというところから猿とあだ名したようです。湯女が客の垢 をかく動作を猿が爪 で物をかくのに準えたのでした。
(参考文献一覧)
・東京都台東区役所『新吉原史考』( 東京都台東区、1960)。
・北小路健『遊女 その歴史と哀歓』(人物往来社、1964)
・小野武雄『吉原・島原』(教育社、1978年)