大河ドラマ「べらぼう」第23回は「我こそは江戸一の利者なり」。吉原の蔦屋重三郎が日本橋に進出する様が描かれました。元吉原(遊廓)は当初は日本橋近くにありましたが、明暦2年(1656)、徳川幕府は同地からの移転を命じます。吉原側は当初、この命令に難色を示しますが、結局は移転に同意しました(幕府は吉原移転に伴い吉原側に様々な便宜をはかっています。例えば夜間営業の許可やライバルである風呂屋の取り潰しなど)。
吉原は浅草方面に移ることになりますが、そうした時に一大事件が起こります。時は明暦3年(1657)1月、本郷丸山の本妙寺から発した火が強風により燃え広がり、江戸の町々を焼いていったのです。この明暦の大火による焼死者は一説には10万人を超えるとされます。明暦の大火により吉原も焼けてしまいますが、火事場を整理して小屋掛けの営業を始めました。
新吉原の築地工事は火事の発生から約2カ月後の3月に始まりますが、工事中は幕府の命令により吉原の地を明け渡すことになります。その間の営業は近隣の今戸・山谷・新鳥越の町家を借りて行うことになったのです。これを「仮宅営業」と言いました。吉原にとりこれが初めての仮宅営業です。町家で営業して果たして繁盛するのかという心配もあったでしょうが、意外にも繁盛したとのこと。なぜか。揚代(遊女を呼んで遊ぶ時の代金)やその他の雑用もそれまでに比べて「手軽」であったからです。手軽さや安さを求めるのはいつの世の人々も同じと言えるでしょうか。
吉原は私娼(風呂屋女)の跋扈により衰退していましたが、火事に伴う仮宅営業によってかえって繁盛したのです。そうした事もあって、火事となれば仮宅営業のために血眼になる楼主もいたようです。消火はそっちのけとなった事から、本当は大事に至らないような火事も吉原の場合は「大火」になり「一円類焼」となってしまうのでした。吉原遊廓の主人らは火事に伴う仮宅営業を待ち望んでいたのです。
(主要参考・引用文献一覧)
・東京都台東区役所『新吉原史考』( 東京都台東区、1960)
・北小路健『遊女 その歴史と哀歓』(人物往来社、1964)
・小野武雄『吉原・島原』(教育社、1978)