大河『光る君へ』一条天皇と中宮定子の対面を阻んだものの「正体」皇女を産んでも… 識者が語る

濱田 浩一郎 濱田 浩一郎
画像はイメージです(hiro/stock.adobe.com)
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 長徳2年(997)12月、一条天皇(塩野瑛久)の中宮・定子(高畑充希)は皇女を出産します。脩子内親王です。同年は定子にとって、激動、まさに波乱の年でした。正月には、兄の藤原伊周と弟の隆家が花山院を弓で射たとして、その後、左遷されます(長徳の変)。定子も落飾(出家)。同年10月には、母の高階貴子が病没しています。まさに様々な不幸が降りかかる中での出産であって、中宮定子の心中を想うと胸が痛みます。

 『栄花物語』(平安時代の歴史物語)によると、出産は格別の苦しみもなく、安産だったようです。不幸が襲った年ではありましたが、皇女の出産は定子にとって一条(ひと筋)の光であったでしょう。

 一条天皇は、定子と皇女の事を当然心配していましたが、他にも案じている人がおりました。同書には、それは女院(藤原詮子。道長の姉)だったと記載されています。詮子は定子のお産を格別心配していたようで、お見舞いなどをされたようです。

 御湯殿の儀(吉日を選んで産湯を使わせる儀式)に際しては、天皇より右近の内侍が遣わされました。定子は、関白だった父・藤原道隆の在世中に、このような事が行われたら、どんなに良かったろうかと思い、悲しまれたと言います。新生児の皇女は色白で美しく、それを見た右近の内侍は「早くお上(天皇)のご覧に入れたいものです」と言ったとのこと。お七夜が済むと、内侍は宮中に戻っていきました。

 一条天皇は密かに内侍を召して、定子と若宮(皇女)の事をお尋ねになったようです。内侍は定子らの様子を一層哀れに奏上したので、天皇はお目に涙を浮かべられたとのこと。そして、若宮を「是非見たいものだ」と仰せになるのでした。しかし定子は出家の身であり、そう簡単に対面できるものではありません。

 定子が宮中に参ろうものなら「世間の口」が煩わしいと同書にありますので、天皇と定子・若宮の対面を阻んでいたものは、1つには「世間の目」だったと言えるでしょう。定子自身が参内を遠慮していたということもあるでしょうが…。

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