NHK大河ドラマ「光る君へ」第16回は「華の影」。主人公のまひろ(紫式部)が疫病に感染して、藤原道長に看病されるシーンが描かれていました。紫式部が生きた平安時代中期のみならず、それ以前より、人々は疫病に悩まされてきました。疱瘡(天然痘)や麻疹などが流行し、多くの人の生命を奪ってきたのです。平安時代の貴族ならば、病になると、平癒のための加持祈祷を受けることができました。しかし、財力がない民衆は祈祷を受けることもできず、亡くなっていったのです。
紫式部が10代後半か20代の時にも、都において疫病が流行します。疫病の発端は、九州だったと考えられています。正暦5年(994)正月に九州で疫病が流行し、それが徐々に全国へと広まっていったのです。路頭に迷う病人のために都においては、仮屋が立ちます。そこに病人を収容したのでした。
それでも、病で死亡した人々が路頭に放置され、死臭に満ちていたとされます。都は骸骨で満ち、川は死人で溢れる惨状を呈するのです。検非違使(京都の犯罪・風俗の取り締まりなど警察業務を担当)が看督長(検非違使庁の下級職員)に命令して、堀水の中で亡くなっていた人々を掻き流すなどしています(平安時代後期の歴史書『本朝世紀』正暦5年5月3日条)。
さて、今回の疫病は神(伊勢神宮・石清水八幡宮、賀茂社、松尾社、祇園社)の祟りとされたため、5月20日には各社に臨時の奉幣使が派遣されました(前掲書)。流行病で人々が次々に亡くなるという恐ろしい事態。恐怖が人々を席巻すると、流言飛語が蔓延ります。この時も、1人の「狂夫」(おかしな男)が流言を飛ばしたといいます。それは、左京三条南油小路西にあった小井戸にまつわるものでした。その井戸は普段は使用されず、水は涸れて泥が深くなっている状態。そんな状態にあるにもかかわらず、男はその井戸の水を飲めば「皆、疫病を免れるだろう」と言い出したのです。
明らかに怪しげな言葉でしたが、藁にもすがりたい人々は貴賎を問わず、井戸に押しかけて、桶瓶に水を蓄えたのでした(前掲書、同年5月16日条)。同書は「狂夫」の言葉を「妖言」としていますが、人々が井戸に押しかけたのも、その妖しげな言葉の「真偽」をよく調べなかったからだとしています。異常事態発生の際は、現代においてもネットで「妖言」が飛び交うことがあります。今回紹介した逸話は、現代人の教訓ともなるでしょう。