ピン芸人の親指ぎゅー太郎(37)がこのほど、よろず~ニュースの取材に応じた。吉本興業所属で芸歴15年。親指の被り物をして「ぎゅー」と言いながら両手の親指を立てるのが決めポーズで、芸人として知る人ぞ知る存在だが、最近は予約の取れない鮨屋として注目を集めている。人気漫才師だった亡き父、芸人と鮨職人としての活動について語った。
芸人を続けながら、JR大阪環状線の京橋駅北口近くの「小よし」で鮨職人として、つけ場に立つ。3カ月で料理学校を卒業してわずか1年半ながらも、お笑いコンビ・サバンナの高橋茂雄が10月に自身のYouTubeで店を紹介して絶賛すると大バズリ。鮨屋は予約で満杯の人気ぶりだ。
父は西川きよし・横山やすしのライバルとして人気を博した漫才コンビ若井ぼん・はやとのはやとさん。85年にコンビを解散してからは漫談家として活動していたが、父がテレビでボケたり、客を笑わせたりするのは、子供心に恥ずかしかった。「小学校の運動会とか、授業参観に来て、ちょっとでも目立つようなことを言うと、『もうやめて』ってなった」。周囲の友達からもいろいろと言われた。「金持ちのボンボンと思われてましたけど、本当に貧乏でしたから。冬に給湯器が壊れても直すお金がないので、水風呂に入っていました」と当時の生活を明かした。父を見て最初は芸人になりたいとは思わなかったが、芸人をテレビで見るのは好きだった。
心の奥底に憧れはあった。高校を卒業後、料理屋に就職するも、ホール担当しかやらせてもらえず2カ月で退社。その後は整骨院で整体師として3年間働いた。「当時、木村祐一さんとか料理芸人がはやったときに、あんなんやれたらええなあと。まあ、芸人によう踏み出さなかった言い訳として、料理をやったり、整体をやったりしてたんですよ」と振り返った。
しかし、テレビで見た「M-1グランプリ」が眠っていた気持ちに火をつけた。「めっちゃ、かっこいい。漫才をやりたい」と2008年4月にNSC入学。ただ、父の名前は伏せていた。「(漫才が)出来もしないのに、祭り上げられるというか…。恥ずかしいなとか、『親が芸人なのに、それなん?』みたいな。実際はそんなことないんでしょうけど」。“二世”として見られたくはなかった。
「父には入学後に〝行ってんねん〟とは伝えました。喜んでいたみたいでしたね。それまで家でお笑いの話をしなかったのに、するようになって、うすうす分かっていたようでしたけど」。父のはやとさんは在学中に64歳で亡くなった。その後、芸人になって父の存在が知られると、大御所の芸人から声をかけてもらえるようになり、父の偉大さが分かった。
希望を持って芸人になったが、5、6組ほどコンビを組んでも、どれも長続きはせず。今後について悩んでいたところ、後輩でお笑いコンビ・ニッポンの社長の辻から「親指ぎゅー太郎の名前でいいんじゃないですか」とアドバイスされた。「ぎゅー」と言いながら両手の親指を立てるギャグは既にやっていた。姓名判断のアプリの結果もあって、当時の芸名「爆風亭ひでと」から2014年に改名。すると仕事が入り、初めて吉本興業から給料明細が届いた。
しかし、その後もなかなか仕事が増えず、小料理屋を営む母親が病気がちなこともあって、鮨職人としても活動することにした。鮨屋一本に営業形態を変えて起動に乗り始めたこともあって、現在、芸人の仕事は自分が関わっているYouTubeの吉本興業チャンネルの番組と、音楽とお笑いを通じて認知機能の低下や抑うつ予防などに取り組むプログラム「Petit笑店」の2つ。
「けじめをつけないといけないのも分かるんですけど」と今後について思い悩んでいるが、「認知症のお仕事で、認知症の方が笑ってくれると、なんかめちゃくちゃええことしているなあと思えるんです。次に会ったとき親指で〝ぎゅー〟ってやってくれたりすると、覚えていてくれたんだと泣きそうになります。めっちゃやりがいがあります」と芸人としての喜びも感じている。「芸人を15年やってきて、鮨屋もそうなんですけど、ここに来て人に必要とされている気がして」。充実した日々を過ごす今、鮨職人と芸人の二刀流は当分、続けるつもりだ。
◆親指ぎゅー太郎(本名・中川秀人)1986年6月4日生まれ、37歳。大阪府出身。幼少期を奈良県生駒市で過ごす。2008年NSC大阪校31期生。同期にロングコートダディ、インディアンス。整体師から芸人の道へ。親指の被り物をして「ぎゅー」と言いながら両手の親指を立てるのが決めポーズ。小料理屋を営む母が病で倒れたこともあり、鮨職人を志し料理学校で技術を所得。鮨職人との二刀流芸人。父は西川きよし・横山やすしのライバルとして人気を博した漫才コンビ若井ぼん・はやとのはやとさん(08年没)。