「好事魔多し」ということわざがあるが、最初に言い出した人でさえのちにこれほど歓喜と転落の大きな振り幅に直面する存在が出てくるのを予想していなかったのではないか。栄光を掴んだ瞬間に我を忘れ不可解な行動で破滅を招いた人物がいる。8月、女子サッカーワールドカップ(W杯)で初優勝した後のスペインサッカー連盟、ルイス・ルビアレス前会長のことで、本来なら組織運営の手腕を称えられるべきところセクハラやパワハラの批判を受け、職務を追われた。
問題の場面は優勝を決めた大会表彰式で起きた。スペインの女子選手たちが壇上で順に優勝メダルを受け取っていた際に、FWジェニファー・エルモーソ(メキシコ・パチューカ所属)とルビアレス会長(当時)が抱き合い、エルモソの方がルビアレス氏の体を持ち上げ、次の瞬間に前会長が両手でエルモソの頭を押えこむようにして口にキスをした。
前会長は事件発生直後、ラジオ番組で「2人の友人がお祝いをしたということ。バカや間抜けの相手をしないように」と、自身への批判を真に受ける気がないとした。それでも数日後には自身の誤りを認めており緊急招集された同連盟の総会で辞任するかとみられていたがその意思がないことを強調。キスの前に「同意があった」とし「誤ったフェミニズムによって拡散されているウソに惑わされないように」と大見得を切った。
見逃せないのは被害を受けたエルモソの受け取り方だ。当初このやり取りを問題視しないという姿勢を見せていたが、しばらくして「キスには合意がなかった」との見解を示した。事態が社会問題まで発展した時点でスペイン連盟が前会長と選手が揃って声明を出すビデオを作成しようと動いたものの、選手はこれを拒否。前会長が連盟臨時総会で説明したキスの見解についても「女性軽視で場違い。単純に私は尊重されていなかった」と不本意なものだったとした。
スペインでは一般的な挨拶として相手の両頬にキスをする習慣はあるし、知り合いの同性はもちろん異性間でも抱擁するのは日常的だ。それでも口へのキスは別物で、力任せに(体力的に優れているスポーツ選手とはいえ)女性を引き寄せ唇を奪うというのはやはり異常と言える。さらに優勝の瞬間、スタジアムの来賓席でスペイン王女らの真横で自らの下腹部に手を当て突き出してお祝い(?)するという奇行まで演じていたことまで分かった。
なおFIFA(国際サッカー連盟)はルビアレス氏に対し90日の職務停止の決定を出し、その後同氏は辞任。しかしその後も自身の主張は変えておらずエルモソの姿勢を批判する構えを見せている。
ただ話はここでは終わらない。女子選手たちは前会長が去った後も引き続き連盟の体質改善を求めている。つまり会長の奇行は単に表面化した問題の一部であり、スペイン連盟全体に根本的な男性至上主義・女性軽視の風潮があるということだ。
スペイン女子代表ではビルダ監督の前任者のときから宿舎時には部屋のドアを午後11時や12時まで開けておくように指示され、監督が自由に出入りできるルールがあり、選手が家族や友人と会食する際には事細かく連絡する義務があり、時には接触する人物を制限が出されることもあったという。その方針は前監督のビルダ体制でも引き継がれていた。さらにキス問題で複数の連盟有力者がエルモソやその家族や友人に対して圧力をかけ前会長に有利な発言や行動を取るよう執拗に働きかけたとされる。
すでにホルヘ・ビルダ監督を含む複数の連盟幹部・各部門の責任者が解任されており、女子選手が求める改革は一応の成果を得ている。ただ今回のキス問題が連盟の自浄作用ではなく国が積極的に介入して裁判へ進んだこと、現在もこの件で賛否を巡ってメディアで議論が続いていることを考えても、単にサッカー連盟という一組織のことだけではなく、スペインという国が女性問題や男女の関係を考える契機になっている。
ピッチで世界の頂点を極めたスペインの女子サッカー選手たちは、本来なら充満する祝勝ムードを自らが消し去るのも辞さずの覚悟とともにもっと大きな敵と戦い続けている